August 07, 2008

裁判長!ここは懲役4年でどうすか

 
 
  裁判長!ここは懲役4年でどうすか
 
     北尾トロ 著
 
        文春文庫 2006年
 
 
裁判を傍聴することは国民の権利であります。 はい、ごもっとも。
その裁判というものは、時に鉄火場へとなり果てる。 そこでは原告/被告の行状や人生、恥も涙も容赦なく衆人の前に曝され、下世話なテレビドラマ顔負けの愁嘆場も珍しくはないのである。
 
そんな裁判を、関係者でもないのに好んで傍聴する人々がいる。
本書は、ライターの北尾トロさんが、裁判傍聴の世界にどっぷりと浸かってゆく顛末を記したもの。
 
元々北尾さんは、法律の学習者や犯罪/裁判の研究者と言う訳ではない。
全くの素人として、何ら目的意識を持たず傍聴に臨むため、その興味の対象や問題意識は、自ずと週刊誌やワイドショーのそれを出ないし、ひどくクダケタ文体もそれに相応しいものになっている。
 
裁き、裁かれる場の見聞録は、やはり究極的な人間観察記としての面白みはあるんだけれど、とは言え人様の苦しみ哀しみをネタにすることへの背徳感が付いて廻るものである。
ところが、作者は事件の顛末から判決の行方までを、あからさまに面白がる態度を貫いている。 早い話が、他人の裁判を次々に覗き廻って愉しんじゃってるのだ。
いや、もちろん被害者/加害者への同情も持っているんだろうけれど、厳粛であるべき裁判を、終始おフザケ調の文体で表現している。 そこの処が、どうにも付いてゆけない。

        ▽▲▽▲▽▲ 
 
皮肉にも、本書の中で一番面白かったのは作者による傍聴の記録ではなく、巻末に配置された、年季の入った傍聴マニア数名を招いての座談会の下りであった。

長い傍聴体験の中で出会った、忘れられぬ名判決から、裁判所内人事の行方まで。 何事であれ、道を極めた人の言には傾聴の価値があると、改めて想った。
 
私としては、この作者の傍聴入門記、他人のトラブルの行方を興味本位で追い掛けただけ(としか思えない)の本書については、もうどうでもイイやって気になっている。
傍聴マニア諸氏の、取って置きの傍聴談ならば、まだまだ聴いてみたい気もするのだけれど。
 

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July 26, 2008

おちおち死んでられまへん

 
 
  おちおち死んでられまへん
    <斬られ役ハリウッドへ行く>


    福本清三、小田豊二著

        集英社文庫  2007年


不肖なんであれ、その道一筋に生きて来たプロと言う存在に弱い。 今風に言えば、リスペクトする傾向にある。

己の役どころを心得ていて、やるべきことをきっちりと勤めあげる。 必ずしも陽の当たらない位置居たりするけれど、でも、その人が居なければ始まらないプロ。

本書の著者、東映京都撮影所に大部屋俳優として半世紀近く勤める福本清三さんもそんなプロ中のプロの一人である。
長年に渡り映画、テレビドラマに脇役として出演して来た福本さん。 中でもテレビ時代劇のラスタチ(番組クライマックスの大立ち回り)では、主演俳優に絶妙の呼吸で斬り掛かり、逆にバッサリ斬り倒される、そんな斬られ役の第一人者である。

本書は、福本さんが柔らかな関西弁で語るのを、小田豊二さんが聞き書きする形式で通しているため、福本さんの腰の低い、そしてユーモラスな人柄が直に伝わって来る。

特筆すべきは福本さんの慎ましさ、礼儀正しさ、優しさ、なにより感謝の心。
役者と言う仕事につき物の華やかな、敢えて言えば虚飾のイメージに反して、驚くほど謙虚で実直なのです。
かつての映画黄金時代から、長年に渡り脇役一筋に勤めてきたこの役者さんのその人生観、斬られ役としての経験談からは、愚痴や他人への悪口が一切出ない。 この本は、だから読んでいて、実に気分が良い。

長年に渡り、名斬られ役で鳴らした福本さんのファンは少なくなく、近年は東映太秦映画村で催される殺陣ショーでも活躍している。

        ▽▲▽▲▽▲

2002年。 定年を間近に控えた福本さんに、思いも掛けぬビッグチャンスが廻って来た。
トム・クルーズ主演のハリウッド作品、「ラスト・サムライ」への出演オファーである。
福本さんに振られたのは、主人公の警護/監視役を忠実に勤める寡黙な老侍、サイレント・サムライ役。

以下の引用は、40年を超える大部屋俳優人生の文字通りクライマックス・シーンとなった撮影風景。
映画「ラスト・サムライ」ご覧になった方もおられると思います。 出来得れば、映画のシーンを思い起こしながら読んでみて下さい。
 
 
 <<< 引用はじめ
 
一番印象に残っているのは、私がトムさんを武士の家に案内するシーン。私が先にあがって、そのあとをトムさんが続く。私はこの時、胸の奥がじーんとしましたわ。
だって、そうでっしゃろ。
このシーン、トムさんを私が案内するんでっせ。
トムさんと私、ふたりだけですわ。ただ、歩いていく。
ただそれだけのシーンなんやけど、これ、私にとってはものすごいことなんですわ。
わかりますか。これまで私がやってきたことと言えば、スターさんとからんだシーンは立ち回りやないですか。それがただふたりだけで歩くんですわ。それも、世界のトム・クルーズと。
五台のキャメラがトムさんと私を追うんでっせ。
こんなこと、あってええんかいなって思いましたわ。
 
 引用おわり >>>
 
 
万感胸に迫りますね。
福本さんの謙虚な姿勢はしかし、ハリウッド・デヴューを飾った後もまったく変わらない。
そこのところが、なにより凄いと想う。
 
 

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July 24, 2008

書のこころ

 
 
  書のこころ

     榊莫山 著

        NHKライブラリー  1996年


昔から、どうしてもその世界に立ち入ることが出来ず、もう悔しくて堪らないものの一つに書がある。
そこに宝物が埋まっていると判ってはいるのに近づけない、判らない。 と言うか、そもそも書かれている字をマトモに読むことすら叶わない。
生涯近寄れないまんまなのかなあ、などと想うと切ないばかりである。

ほんの数十年前までは、必須の教養であった書が、今ではごく一部の学者、好事家でもなければまるで縁のない、判らなくて当たり前のものになってしまった。
千数百年続いた書の伝統というものが、今日ここに絶たれようとしている。

        ▽▲▽▲▽▲

本書「書のこころ」は、元々NHKのテレビ番組「人間大学」(1992年放送)のテキストとして用意されたもの。
私は、残念ながらその番組を見ていないのだけれど、番組から派生したこの本を何気に読んでみたら滅法面白かった。
もう、何年も前に買い求めた本なのだけれど、爾来折に触れ手にする、愛読書の一つとなっている。

本の内容はと言えば、書家の榊莫山さんが、平安の昔から近代まで、書の歴史に残る名筆の数々を紹介し、書家それぞれの人生を語ると言うもの。
専門用語に頼らず、また章一つひとつが短いので、とても読みやすい。
書の図像も豊富に掲載されているけれど、新書サイズの簡易な装丁の本なので、印刷の方もあまり良い状態ではなく、実のところ、見て良く判ると言うものではない。
でも、莫山先生の型にはまらない解説がとにかく痛快で、何度読み返してみても面白いのである。

        ▽▲▽▲▽▲

王羲之の書法に学んだ生真面目な最澄の「久隔帖」に、それに飽き足らず当時のニューモード、顔真卿の書法を取り入れた空海の「灌頂記」。
それぞれ愛弟子に宛てた手紙だったり、イベントのためのメモ書きだったりする。 つまり公式の作品ではない、極々プライベートな文書なのだけれど、そういう、気取らず「何気に書いた」ような書が後世に残り、傑作として高く評価されているというのが実に面白い。

平安の宮廷に生きた書家、小野道風の「屏風土台」は屏風に漢詩を書いた際の、これも下書きである。 (道風って、柳の葉めがけてジャンプする蛙と、傘をさしてそれを見下ろす貴人の図の、アレですね)

そして、そのマイペースな性質ゆえ宮中では浮いた存在であった書の天才、藤原佐理が関係各方面へ向け書きまくった華麗なる「詫び状」の数々。

時代は下って日蓮や一休ら、激しい生涯を送った傑僧の書からは、圧倒的なパワーを感じさせられる。

江戸時代の名僧白陰、仙厓、慈雲ら。 共通するのは、時の権力におもねらず、己の信じる道のみを往く、その姿勢を生涯貫いたこと。

良寛が出て来ればもう幕末も近い。 俗世と関わりを持たず、自由闊達に生きた良寛さまへの、莫山先生の入れ込みぶりがなんとも微笑ましい。

明治の男と言えば、気骨ある人というイメージがあるけれど、莫山先生によれば、書に関しては無気力、安穏に陥っていると言う。
その中にあって硬骨漢は、マリア・ルース号事件で諸外国に向け気を吐いた副島種臣。 書と近代史が結びつく。

そして石川啄木。 ここまで来て、やっと現代に通じるスタイルの字体を見る。 でも、副島種臣の次が啄木とはね。 いきなりセンシィティブになりましたねえ、莫山先生。

昭和に入って會津八一。 またしても気骨の人だ。 そして飄々として生きた熊谷守一。

        ▽▲▽▲▽▲

この本は、もうこれまでに何度も読み返していて、その度に愉しいのだけれど、では書というものが少しは理解出来て来たのかと言えば、依然として判らんちんな私なのである。 もちろん、より一層の興味を掻き立てられはしますけれどね。

本書に収録された書、そして書家のチョイスからは、権威におもねらない莫山先生の人柄や、自由闊達な人生観が伺え、読んでいて誠に気分がヨロシイ。 (だからこそ、何度でも読み返しちゃうんでしょうね)
書が判らなくても愉しめる書の本、と言ったところでしょうか。
書、その豊穣の地平は相も変わらず、自分から遠いとおいところに拡がっている。 書のこころ ふうっ。
 
 

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May 17, 2008

田宮模型の仕事

  
 田宮模型の仕事 (文庫版)
 
    田宮俊作著
 
       2000年 文春文庫
 
 
世界に冠たる模型メーカー、田宮模型。
日本はもとより世界中のモデルショップを席巻するTAMIYAブランド。 その社長が書き記した一代記である。
父・初代社長の興した、倒産寸前の小さな模型製作会社を引継ぎ、やがて世界のタミヤへと育て上げた中でのエピソードの数々、模型の世界の素晴らしさを語る一冊。

一体、こういったものは、社の創業○○周年とかで、社員をはじめ関係者や出入りの業者なんぞに配ったりする、というのが一般的ではないだろうか。
長年に渡る艱難辛苦の末、我が社も今日この繁栄をみたる事ができました。 これも一重に関係各位のお陰であります。(とこの辺は気配りも怠り無く) なんてね。 とまれ、本来あまり世に出る性格のものではない。

それが本書、「田宮模型の仕事」では、ジリ貧時代の苦労から、模型屋としての創意工夫、なりふり構わぬ海外突撃取材、そして事業の躍進ぶりに至るまで、活きいきと描いていて、田宮模型とは全く関係のない私が読んでも、滅法面白かった。

子供の頃、一生懸命(まあ、子供なりにですけれど)組んだ、懐かしいプラモデルたち。
どれもみな愉しい想い出だけれど、しかしその陰では、当時少年だった私が想いもしなかった、発売に至るまでの苦心談があったのだ。

プラモデル事業へ参入の当初、その造りやすさから、戦車の模型を開発し始めたというタミヤ。
世界最高クラスの品質を目指し、よりリアルな造型を市場へと提供すべく、社長自ら欧米の軍事博物館への取材旅行を敢行した。
海外旅行がまだまだ不自由な時代に、各地を廻り、残された往事の戦車の数々を徹底的に調べまくって、かつてない精巧なプラモデルを世に問うたのである。
そのハングリーな姿勢は、昭和のモーレツ社員像そのものである。

プラモデルの箱を飾る箱絵の良し悪しは、売れ行きを大きく左右する。
戦記もの挿絵の第一人者、巨匠・小松崎茂画伯との出会いは、風前のともし火にあった田宮模型を起死回生へと導いた。

プラモデルの開発に関わる話しばかりではない。
やがてタミヤは、ラジコンやミニ四駆など、時代を先駆ける商品を次々と発表していった。
また、製品を売るばかりではなしに、長期的にファン層を育成し、ブームを先導していったのである。
このあたり、模型バカに終わらない社長の、卓越した実業家としての貌が伺える。

少年の日、プラモやミニ四駆で遊んだ人には是非ぜひお奨めしたい、夢ある半生記です。
 

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April 19, 2008

間宮兄弟

 
 間宮兄弟
 
   江國香織
 
     2004年
 
 
齢30代にして独身を貫き、恋愛だの浮いた話しとは、およそ縁無く過ごす兄と弟。 間宮兄弟の共同生活を恬淡と描いた小説。
ネットを見渡せば、兄弟の無邪気さ、純粋さに癒されると言った内容の書評も見られるけれど、私はそうは想わない。
 
同じ著者の「東京タワー」と同様、主たる読者は女性であろうか。 しかし、登場する男性に関しては、「東京タワー」で不倫の相手を務めた大学生二人とは逆張りの、女性読者からは間違いなく「そういう人だけはご勘弁」と断定されそうなタイプに設定されている。
 
そんな、「ありえない」兄弟。 主人公とはいえ、どうにも共感し難いものがある。
むしろ、女流作家(と、主たる読者層)の視角から感じるのは、この(常識を超えて)邪気のない、世にも奇特な兄弟への、「好い人ね」と言いつつ斜め上から見下ろす、不躾で冷ややかな好奇の視線である。
私としては、読んでいて、そんな著者と読者の思惑、興味の拠りどころばかりが気になってしまった。
 
それにしても、兄弟の無邪気な女性観には泣けてくる。
間宮兄弟。 まだアタックを掛ける気があるんなら、相手はもっと選んだほうが好いよ。
 

   「東京タワー」  江國香織
 

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April 03, 2008

山下清の世界

 
  裸の放浪画家・山下清の世界
 
    <貼り絵と日記でたどった人生>

        池田満寿夫
        式場俊三
 
          1993年  講談社カルチャーブックス

  
ちょっとした野暮用があって、千葉県は我孫子市まで往く。
JR常磐線に乗り換え、我孫子駅で降りた。
この駅のホームに店を構える立ち食いそば屋が「弥生軒」。

「弥生軒」はその昔、同じ屋号を使って駅弁屋をやっていた時代に、あの山下清画伯が働いていたことで知られる。
画伯が寄宿していた八幡学園を度々抜け出し、各地を放浪した末、また学園へと戻るその合間に、度々ここで職を得ていたらしい。
特段、風光明媚を持って知られるような当地柄ではない我孫子駅の界隈である。 そこにある駅弁屋が、何ゆえ画伯の気に入ったのかは好く知らない。 余程、居心地の好い、気さくな店だったのかもしれないね。

「弥生軒」の名物は裸の大将ばかりではない。
唐揚げ蕎麦と言うのがメニューにあって、これがすごいコトになってるんだよ。 どデカイ鶏の唐揚げが丼の真ん中にデデデンと沈んでいる。 駅蕎麦好きの間では、結構有名な存在らしい。
もちろん、私も頂きましたよ。 なかなかに食いでがあったけれど、しっかりと完食して参りました。

マクラが長くなった。
後日、図書館で借りて来たのが本書、「裸の放浪画家・山下清の世界」である。
爾来、毎夜パラパラと頁を捲っては愉しんでいる。
素朴なタッチの貼り絵で名高い画伯の作品。 その初期から晩年まで。
貼り絵ばかりではない、素描や水彩画などが多いのも意外だった。 その他、日本各地、そして巴里でのスケッチ。
そこには、世間一般には専ら童画的な作風で知られる画伯の、旅した日々を真摯な視線で見詰め、迷いのない筆致で綴った、多彩な作品の数々があった。
 

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February 21, 2008

東京タワー

  
 東京タワー
 
   江國香織
 
     2001年
 
 
二組の不倫カップルが辿る軌跡を、江國香織が淡い筆致で書き綴った小説。 そう、今回は不倫小説です。
このところ続けさま、自分に合いそうもない小説を選んでいる。 何を求めているんだろうか私は。 ま、好いけれど。

ドラマとして、さほど劇的な動きはない小説だけれど、その代わりに構成の妙が光る。
二組のカップルに、くっきりと対称的な関係を取らせているのである。
・男。 どちらも大学生。 研究、サークルなど、ことさらなにかに打ち込むなどしているわけではない。 スマートというか、小奇麗にしていて、でもその他にこれといった特徴はない。
私から見て、彼ら二人には、どうにも魅力を感じられないのだけれど、著者を含めた、対象と思われる読者層(30~40代の女性というあたりでしょうか?)にとっては、こうあれかしと感じる若い男性像に当てはまるものなのかもしれない。
・女。 どちらも中年に差し掛かる年頃。 既婚で子供なし。 経済的には豊かで、夫とも一応上手くいっているけれど、夫婦べったりというわけではない。

如何にもテレビのトレンディドラマめいた(そういうものをあまり見ていない私が言うのもナンだけれど)雰囲気、設定や、小道具の一つ一つなど、それぞれが作品世界を造りあげているのだろうけれど、私にとってはなかなかついてゆき難いものがある。 とまれ、私がこれまでに読んだことの無いタイプの小説である。

もっとも、この二組の不倫カップルの構造はそのままにして、男女の役所を引っ繰り返してみれば、(つまり女を大学生に、男を妻帯者に)互いの社会的ポジションや精神年齢の差、家族関係なども含めて、そのままフツーにありがちな男性視点の不倫小説になり得るのではないか。

間違えてWomen's Onlyのドアを開けちゃって「スイマセン!」、あるいは、あんまり慌てて飛び乗った電車が女性専用車両だった(幸いにも、実際にはしでかしていないけれど)みたいな、ある種バツの悪さが、読んでいる間中ついて廻った。
読んで面白かったかと問われれば、まあ、そうなんだけれど、でも、なかなか素直に読み進めることが出来ない。 どうにも感想をまとめ難い小説であることよなあ。
 

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February 13, 2008

おやすみ、こわい夢を見ないように

 
  おやすみ、こわい夢を見ないように

    角田光代著

      2006年
 
 
題名に惹かれて手に取ってみた、角田光代の短編集。
角田作品を読むのはこれがはじめてになる。

どの小説も、身近にあるものへの悪意、ごく私的なものへの憎悪を、ねちねちねちねちと、ひつこく、ひつこく描写したり、とうにふさがった筈の傷口を目ざとく見つけて、強引にこじあけてみたりする。 これまでに読んだためしのないタイプの小説である。 こういうのはニガ手だな、とつくづく想った。

ちっぽけな悪意を抱えて日々を送る登場人物ら、そういうこと自体を特段奇異とも想わないけれど。 でもそんな露悪趣味ひとつで、短編集一冊通してしまう気かなあ? なんて呆れつつ、その毒気にはまた惹き込まれるものがあって、とうとうお終いまで付き合ってしまった。

読みはじめる前はゆめ想わなかった後味の悪さから、読後、気持ちの整理に困ってしまった一冊。
 

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January 12, 2008

逃亡くそたわけ

 
  逃亡くそたわけ
 
     絲山秋子著
 
       2005年
 
 
主人公ハナは二十一歳の女性。 「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」 こんな不思議な文句が絶え間なく聴こえる幻聴、そして躁病に悩まされて、福岡の精神病院に入院中。
でも、「このままじゃダメになる」。 回復の兆しもなく、止め処ない薬漬けの毎日への不安から、病院を逃げ出し、ゆくあてもない逃避行を始めた。 旅の相棒は、同じ病院の患者仲間「なごやん」。 博多に住みながら、しかし東京を愛してやまない名古屋人。

病気の悩みや、終わりの見えない逃避行の深刻さなどとは裏腹に、小説はなんとも心地好い文体で綴られる。 なにしろこの二人、なごやんのクルマに乗って九州を南下しがてら、観光地はしっかり見て廻るし、温泉にも入るし、更には泊まるところがなくて車中泊をしたり、河に入って流されてしまったりという珍道中ぶり。

旅の間、毎日小さなケンカばかりしているハナとなごやん。 そう遠くないであろう、二人のお別れの予感と、出口の見えない焦燥感が付きまとう旅。 けれど、車窓から眺める景観の描写や、ハナのまくしたてる福岡弁などで、(病気やトラブルと戦いながらも)飄々として爽やかな、ロードノベルに仕上がっている。

どこまで行こうと出口が見えてくるわけでもない。 ただ、どうしようもない現状から逃げ続けているだけ、というのは十分判っている。 この旅も、やがて終わりが来るってことを意識しながらも、その割りにあまり追い詰められた風もないハナ。

読んで気分の好い小説には違いない、でもどこか消化し切れない、釈然としない気がするのは、実はそれだけ主人公に共感しているということなのかもしれない。
 

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November 12, 2007

ハリー・ポッターと賢者の石

 
 ハリー・ポッターと賢者の石
 Harry Potter and the Philosopher's Stone
 
   J.K. ローリング著
   J.K. Rowling

   松岡佑子訳
 
      1997年 英国
 
大ヒットをみた英国の児童文学を、ようやく今頃になって読んだ。
いざ本を手にしてみて、想いの他ぶ厚いのに驚く。 小さな手には、とりわけずしりと持ち応えのある重みではないだろうか。
それにしてもこのボリューム感。 面白くてたまらない物語が、読んでも読んでも終わらない、というのは、人生の至福の一つにあげられると想う。 子供の頃、ロフティングのドリトル先生を夢中になって読み漁ったことを想い出す。

※幼い頃に魔法使いの両親と死別し、意地悪な叔母一家に育てられた主人公ハリーが、十一歳で魔法学校に入学する。 この「賢者の石」では、その全寮制の暮らしの一年目を描く。

小説の全篇に渡って、魔法に関するプロットや小道具が盛り沢山。 それらはどれも古くから伝わる伝統的なもので、新しいところはこれっぽちもなさそうである。(この道に詳しくないので、ハッキリとは言えないのだけれど)
伝統に守られて強固な骨組みと、奥深い陰影を得た物語世界。 時折垣間見られるグロな描写は、怪奇小説好きの英国ならではのことか。

主人公ハリーと、同じ寮に暮らす仲間は、イタズラ好きでシラケとかユトリなんぞとは無縁の、誰もみな気持ちの好い連中ばかり。 一方、敵役の寮もあって、そこにいる子はみんなズルくて意地悪と言う設定。
こちとら、こういう善悪の単純過ぎる構図に、素直に共感出来るような歳でもないので、いきおい客観的に、子供たちの騒ぎ遊ぶのを傍で見守るオトナと言う気持ちになって読み進める。

どの部分も面白くて読ませるんだけれど、お終いの大逆転は、ちと気に入らない。
こういうのは、オトナの読者としては、無邪気に喜んでいられませんよ。 キミたちは、どうして仲良く出来ないの? みんなあいつらがワルイ、果たしてそれだけで済ませてしまって好いのかな? なんて、説教の一つも垂れたくなってしまうではないか。

あゝ、もしも子供の頃にこの物語と出会うことが出来ていれば、どんなにか無我夢中になって読めたろう。 などとぼやかざるを得ない。
1997年の出版ということで、もちろん時間的に無理な話しなんだけれど。 こんなに面白い本があって好かったね、今の子供たち。

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September 30, 2007

嫌われ松子の一生

 
  嫌われ松子の一生
 
    山田 宗樹著
 
       2004年
 
 
小説の冒頭、女教師として故郷の中学に赴任して間もない松子が、悪徳校長に手も無く騙されてしまうあたりから、早くも嫌な予感はあった。

その後、自分の担当する生徒のしでかした、ある事件に対する、身の振り方のマズさから、故郷を飛び出した松子。 あとは、転落に次ぐ転落のモノスゴイ人生を送る。 それにしても、こんな転落の連続ってアリだろうか。 これじゃ転落劇のパロディだよ。

根っからマジメで努力家の松子であった。 小学生の頃から優等生で通し、やがて大学に進み中学の教師になる。 その勤勉さは、皮肉なことに、転落してゆく間も失われることなく、例えどんな仕事に就こうとも、常に抜きん出た成績を示す。 けれど、そうやって成功を掴みかけた矢先、人生の折々の分岐点で、必ず悪い方を選んでしまう松子と言う人。

依存症。 ようやく自分の進むべき道を見出し、上手くゆきかけても、その傍からオトコへの依存に走ってしまう。 毎度毎度これなんだから、読んでいてもう、タマラナク歯痒いです。 だからダメなんじゃないかって、松子を熱く諭してやりたくなってしまう。
あんまりな転落の連続に、もういっそ、堕ちるところまで、堕ちてみせてもらおうじゃないのって気になってしまった。 こういう奇妙なカタストロフの積み重ねが、作者の狙いだったんだろうか。

依存し、その度に裏切られ、を繰り返した松子。 晩年、もう一切のことに感心を失ってしまい、時間だけが矢のように過ぎ去ってゆく。 その姿が憐れでならない。
決して、面白くなかったわけじゃない。 でも、後味の悪いことについちゃ、天下一品の小説です。

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August 26, 2007

魔術はささやく

 
 
  魔術はささやく
 
    宮部みゆき著

        1989年
 
 
ミステリー小説というものを、普段はあまり読まない。 だから、作品の出来と言うことについて、とやかく言うことは、し難いのだけれど。 ともあれ、この作品(日本推理サスペンス大賞受賞作)は、なかなか面白く読むことが出来た。

※主人公は、幼い頃から世の中の辛酸をなめて育った、けれど、心優しくて芯の強い少年。 誰にも秘密にしているけれど、彼は人知れずある技能を身につけていた。 ある日、タクシー運転手を務める彼の叔父が、不可解な人身事故を起こして逮捕されてしまう。

この小説では、少年の居候先となる叔母一家をはじめ、主人公を取り巻く周囲の人々の優しさを描く部分が特に楽しめた。 でも、ミステリーとしては肝心の、犯罪のトリックと言うか、犯行の手口に「アレ」を使っちまうのは安易、と言うか、ルール違反と想うんだけれど。

と言うわけで、この小説をもっぱら人情ものとして評価して、事件の顛末にはとんと興味の湧かない私である。 もしかして、ミステリー小説って、自分にはあまり向かないのかもしれないですねえ。

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August 23, 2007

気まずい二人

 
 
 気まずい二人
 
   三谷幸喜
 
     1997年
 
 
人気絶頂の脚本家による対談集である。 毎回、三谷さんのご指名で各界から迎えるゲストは皆女性。 ならば三谷さん、さぞゴキゲンではないかと思いきや、コチコチに緊張しまくりなのである。

普通、対談と言えば、ホスト側が会話をリードしてゆくものでしょう。 ところが三谷さんは筋金入りの超口下手と来ている。 なので、差し向かいに座った二人の間で、気まずい沈黙が出来たり、ゲストと間合いを取り合ったり、なんていうことが起きてしまう。 この本の変わっているのは、そんな、通常の対談ならばカットされるであろう部分までを収録しちゃってる点。 と言うか、本筋の会話の内容よりも、気まずい時間の場面が可笑しいんだよね。

会話がなにかの切っ掛けでつまづいてしまって、もうこうなると、なにを言ってもシラケたり、ハズしたり、皮肉にしか聴こえなかったり。 そんな、負のスパイラルに陥るようなことって、ありますよね。 この対談では、毎回お約束のようにそれが起きてしまって、これはもう、三谷さんの話し手としての資質によるところ、としか言い様が無い。
対談の中で、どんな話題を振って好いのか判らなくなり、絶句してしまう三谷さん。 焦る! で、ここは何か気の利いたことを話さなきゃ、なんて気負うもんから、余計に焦りまくってしまう。 そして、会話が途切れた時のためにと、あらかじめ用意して来た話題のトホホさときたら、もう。

活字にするにあたって、幾らかの脚色はあったのかもしれないけれど、ここでは、そんな、悪夢のようなバツの悪さ。 奈落へ急降下してゆくホストの姿を活写して笑いを誘う。 ここら辺り、三谷脚本のギャグ感覚に通じるものがあると思う。
 
 
対談のゲストは、以下の皆さん

  八木亜希子 (フジテレビ・アナウンサー)
  十朱幸代 (女優)
  西田ひかる (歌手)
  日笠雅水 (手相観)
  桃井かおり (女優)
  鈴木蘭々 (タレント、歌手)
  林家パー子 (タレント)
  緒川たまき (女優)
  平野レミ (シャンソン歌手)
  森口博子 (歌手)
  加藤紀子 (歌手)
  安達祐美 (女優)
  石田ゆり子 (女優)
 
 
いやはや、ゲストのみなさん、お疲れさまでした。 と言うか、よくぞ三谷さんを見捨てず、お終いまでおつきあい下さいました。
実は、ゲストはこの他にまだ二人いたのだそうで。 でも、よんどころのない事情(!)により、本には収録出来ないのだそうな。 なにがあったのかは知らないけれど、この対談スタイルだと、まあ、ムリもないかな、と思う。
読む側は可笑しいばかりだけれど、喋る側にとってはスリル満点(?)の対談だったかもしれない。

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August 16, 2007

素数ゼミの謎

 
 
  素数ゼミの謎
 
    吉村仁  著
    石森愛彦 絵
 
      2005年  文芸春秋社
 
 
今回の標題をご覧になって、さてはもとよし、「博士の愛した数式」にかぶれて数学の手習いでも始めたかとお思いかもしれませんけれど、然ニ非ズ。 北米に生息する、摩訶不思議な生態を持つ蝉たちについて語った本のお話しであります。 これは子供向けに書かれたものなので、解説がとても丁寧で判りやすく、私のような理数オンチにはありがたい。

素数ゼミとは、北米に生息する17年、そして13年おきに大量発生するセミのことで、一般には周期ゼミ(Magicicada)と呼ばれる。
今年(2007年)はそのジュウシチネンゼミの方の当たり年で、推定で70億匹ものセミが羽化したと言う。(因みに、2007年7月現在の世界人口が66億人)
鳴くのはオスだけとしても、35億匹の耳をつんざく大合唱である。 それが、特定の地域に大発生する。 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」なんて、日本で聴くセミの声のように、風流に浸るどころではない。

なぜ局地的に大発生するのか、そしてその周期が17年と13年になったのか。
その謎は、①氷河期を耐え抜いたセミの、幼虫期~成虫期に至る低成長型のライフサイクル。 ②一匹ずつは非力でも、大群をなすことで強みを発揮する。 種の生き残りを賭けたマス戦略。 ③そして、17と13はどちらも「素数」であり、この2グループのみが、異なる発生周期を持つセミとの交雑を最小限に留め得た。 という各々のポイントから、鮮やかに解くことが出来る。

本書に(蛇足ながら)付け加えるならば、3つの謎は、環境に適応し得た種のみが生き残るという、ダーウィンの進化論の命題に繋がってゆく。 (けれどこの辺りは、子供向けということで、教育課程を意識して、あえて語らないでいるのかもしれないですね)
イラストを多用した説明は、明快にして痛快至極。 子供のみならず、大人が読んでも十二分に楽しめる。 お勉強と言うより、スリリングで秀逸無比なミステリーってトコですな。

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August 05, 2007

博士の愛した数式

 
 
 博士の愛した数式
 
    小川洋子著
 
      2003年


算数、それと数学の勉強ってことについちゃ、あんまりハッピーな想い出がないんだな。 大人になって勉強から開放された今だって、日々の仕事や生活の中で遣う数字や計算など、数学と結び付けて考えているわけではないし。 そんな、数学に対して殊更距離を置きたがるスタンスは、なにも私だけのハナシではない・・・・ですよね?
そしてまた、この小説の著者、小川洋子さんもまたその一人だったりするのかもしれない。
 
 
※数論の博士号を持つ有為の数学者でありながら、交通事故の後遺症により記憶が八十分しか持たないという老人「博士」。 小説は博士と、その家に雇われた家政婦、そして十歳になる息子との交流を、抑えの利いた筆致で描いてゆく。
特殊な病故に世間との交渉を持たず、独り数と遊ぶことを心の糧にする「博士」と、その特異な生活に入り込んで来た語り手の「私」に、独り息子の「ルート」。 数学とはおよそ無縁の世界に住む二人に、博士は折に触れ数学について語って聴かす。 それは極めてユニークで親しみやすく、また時に数の世界の深遠さを垣間見せるものだった。
 
 
慎ましく情感溢れる美文は、まことに静謐で安定した(博士の語る数式のように)美しい世界を創り上げていて、そこには数学者ではない作者の持つ、数の織り成す美学への素直な憧れが見て取れる。

数学への憧れですかい? そういうハナシであれば、こちとらも共感出来ますって。 未知の、美しいものへの憧れならば、人後に落ちない積りだし。
博士が数学への愛を込めて語る、たとえば素数。 博士に言わせれば、それはこの世のなによりも美しいもの。
そして友愛数。 「博士」と「私」をつなぐ因縁の数字がこれだった。 けれど、友愛数って? そもそも謹厳、冷徹をもってなる数学の世界の筈でしょう? そこへいきなり、「友愛」なんていう言葉に出て来られてもねぇ。 ドギマギしてしまうではないか。
それから完全数。 その数自身を除く約数の和が、その数自身と等しい自然数のこと。 滅多にあり得ない、この数字を廻る数奇なエピソードは、小さな冒険譚だ。

どこまでも澄みきって穏やかな、でもうら悲しい、まるで小春日のような小説でした。

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August 04, 2007

シムソンズ

 
  
 シムソンズ  Simsons
 
   森谷雄著
 
     2005年
 
 
巷間知られるように、シムソンズは2002年のソルトレークシティ・オリンピックに日本代表として出場した女子カーリングチームである。 北海道常呂町出身のメンバーで構成されたこと、そしてその爽やかな健闘ぶりが話題となり、カーリングという競技を一躍メジャーな位置に押し上げた。

あの当時、テレビで試合が放送された翌日だったか、友人と「まさか、カーリングを見て感動するとは思わなかったよね」なんて言葉を交わした記憶がある。
この小説はそのシムソンズをモデルに書かれたフィクションである。(シムソンズのことは映画にもなったそうで、著者の森谷雄さんは、その映画版「シムソンズ」のプロデューサーも務めたとのこと)

舞台は北海道、オホーツク海に面した常呂町(現在は北見市)。 知床と網走と言う、二大観光地に挟まれた静かな町である。 名物はサロマ湖に、特産のホタテ、そして、なによりユニークなのは、この町ではカーリングと言うスポーツを町民がこぞって楽しんでいると言うこと。
町内には日本初の屋内カーリングホールがあるし、町民の多くがカーリング経験者であり、また、いっぱしのカーリング評論家なのである。 好いなあ、こういう土地。 出来るなら、いつかこんな町に居を定めてみたいもんだと、切に想う。

小説は、常呂町に生まれ育った女子高生四人がシムソンズを結成するところから、最初の公式戦を果たすまでを描いている。 メンバーは、たとえば映画「リンダリンダリンダ」がそうであったように、個性が見事にバラバラな、現代を生きる、等身大の女の子たちである。

テーマは「信じる」こと。 肝心のカーリングの試合シーンはそれほど多くはない。 極々ユルい、そしてこれと言って新味のないスポ根小説と言えるかもしれないけれど、小説が短いのと、簡潔で優しい文体で通しているのとが相まって、上手くバランスが取れていると想う。

出てくる人物が誰もみな好い人ばかりだし、小説全体を充たす、ホワっとした空気感から来る居心地の好さなど、中々に得がたいものがある佳品と想う。
 
   映画版 シムソンズ
 

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July 28, 2007

固いおとうふ

 
 
 固いおとうふ
 
   中島らも著
 
    1987年~1997年 双葉社
 
 
中島らもがあちこちの雑誌に書いた軽いエッセイを一冊にまとめたもの。
執筆時期的に、飲酒中のものと断酒中のものとに大きく区別出来るものの、統一したテーマと言えるものはこれといってなく、また、「今夜、すべてのバーで」でみせたような怜悧な切れ味は、ひとまず治められている。

ところで、時々差し挟まれるこの人のギャグのことを、私はちっとも面白いと思わない。 それよりもむしろ、なにげない独白の中に余程傑作で、また好いものがあると思う。(本当はそれも計算ずくやっていて、ちっともなにげなくないのかも、だけれど)

読んでいて感じたのは、この人はつくづくエエカッコしだな、ということ。 文章から、作者のどこか他人とは違う、普通じゃあない自分を見せつけたいという抑え切れぬ衝動が伝わって来るのだ。
それが好い方に働く場合があれば、上手くいかないない場合もある。 だがしかし、生憎と後者の目が出たとしても、こちらは、しょうがねえなあ、って感じでお終いまで付き合ってしまう。 中島作品にはそんなところがある。
おっそろしく人を食った、底の知れない面があるかと思えば、また、コワイくらいに素直で真摯な面をも併せ持っている。 おそらくはそれを保つために、中島はあんな生き方を選んだのか、などとと考えさせられるのだ。
  
 
 ・・・・・・
 
「らもさん、これうまいですよ、豚キムチ!」
「はあ、豚キムチですか」
「豚肉とキムチをザッと炒めたやつでね、これが酒にもご飯にも、よう合うんですわ」
「いただきます」
 破戒僧が殺生戒も畏れずすすめてくれた豚キムチは、ほんとうにうまかった。 そいつを肴に一杯二杯と飲むうちに、さっきまで自分ひとりで緊張していたのがふんわりとほぐれていった。
僕の横では、死刑廃止運動のTさんが熱心に僕をオルグしている。 生返事をしていると、そこへスナックのママさんが割り込んで来て話がわけわからなくなってきた。
 ふと自分の右側を見ると、二十前後の、かしこそうな顔の女の子が僕の袖をつかんで、つんつん、と引いている。
「なに。 どうしたの?」
「あのな。 なんでそんな自由そうにしてられるの」
「え。 なんでござりますかいな」
「なんにも執着がないみたいで、自由そうでうらやましいねん。 なんでそうなるの」
「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね」
「自分のこと、好きとちがうの」
「うん。 そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」
「ふうん。 それって、気の毒やね」
「そうかもしらんけど、その”気の毒”やとも思わへんねん」
 いま考えても不思議なのだが、この女の子はいきなり横にきて、いきなり僕の心の敷居をまたいではいってきた。 普通、ノックくらいはするものなのだが。
 
 ・・・・・・
 
 
上記は然るお寺で講演を持った後の、レセプションのエピソードからの抜粋である。 あからさまに人を食ったギャグよりも、中島のこうした、心情を吐露しているのかエエカッコしか、判然としないビミョーな辺りが面白いと思う。

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July 02, 2007

ザ・ウイスキー・キャット

 
 
 ザ・ウイスキー・キャット
 
   C.W.ニコル 著
   C.W.Nicol
 
   松田 銑 訳
 
 
猫はウイスキーなんて飲まない。 でも、昔ながらのやり方でウイスキーを造り続ける蒸留所、酒蔵には、必ず猫がいるものなのである。

舞台は英国、スコットランド。 シングル・モルト・ウイスキーを蒸留、貯蔵するレンガ造りの古い酒蔵は、原材料の大麦が仕込まれ、また小さな隠れ場所にもこと欠かないことから、ネズミたちにとっては格好の住処となっている。
そこで古くから、酒蔵ではネズミ退治のために猫を飼って来た。 夜毎、何匹もの得物を仕留める彼ら、彼女らウイスキー・キャットは、誇り高きプロのハンターなのである。 そして、そんな猫たちを、同じ酒蔵を守る仲間として遇する、ウイスキー造りの男たち。

この小説は、長年に渡りウイスキー・キャットとして勤め上げた老牡猫ヌースの昔語りとして描かれる。 ごく平易な文体に、趣のあるスコットランドの酒造所の写真や、イラストのイメージから、なんとなく子供向きの童話、あるいは、女性向きのお洒落なライト・ノベルなどを想像したのだけれど、そこはC.W.ニコル。 まったくの男性の視点で貫かれた、酒と猫を愛するオトコの小説である。

片田舎の古びた酒蔵の、のんびりとした営みの中にあって、しかしウイスキー・キャットらの毎日はけっこう忙しい。
夜は酒蔵を隈なく見回り。 自慢の早業でしとめるのはネズミばかりではない。 昼は酒蔵を抜け出して周囲を見回り、兎、鳥などをハンティング。 雌猫のお相手などにも、抜け目無く通じていながら、酒蔵で働く猫と言うスタンスから離れることは決してない。
ヌースと言う牡猫の、しっかりと地に脚の付いた生き方。 したたかな処世術、ユーモアに、わずかばかりのセンチメンタリズムを交えた、ニャンとも好い話しになっている。


最近はシングル・モルト・ウイスキーも随分と手に入れやすくなった。 我が家の近所のイオンなど、売り場の一角をそのために割いているくらい。
彼の地のシングルモルトを、愛すべきウイスキー・キャットたちに思いを馳せつつ味わう、というのも、また悪くないではないか、なんて想っている。

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May 05, 2007

御家人斬九郎

 
 
  御家人斬九郎
 
    柴田錬三郎著
 
       新潮文庫
 
 
「御家人斬九郎」。 好いねえ、この題。 ネーミング一発で気に入ってしまった。
松平残九郎、人呼んで御家人斬九郎。 御家人と言う、御目見え以下の下級幕臣の故、その俸禄は極端に乏しく、副業に罪人の介錯をして糊口をしのぐと言うダーティー・ヒーローである。

この斬九郎、粋な呼び名に相応しく、色男で滅法強いし、一見向こう見ずなようで、その実アタマも切れる。 同居する老母の麻佐女は小鼓と薙刀の達人にして大食。 その、およそ金銭感覚というものを欠いた食通ぶりが斬九郎の悩みのタネ。 逆に言えば、母親の他にはおよそ怖いもの、悩みなどに縁のないのが、斬九郎と言う男である。

私はこのタイプの時代ものは、実はそれほど好みとは言えない。 この小説にしても、斬九郎の、ある種スーパーマンぶりに共感出来なくて、なかなかその世界に入ってゆけなかった。 愉しむことの下手な、不器用な読者なのである。 それでも読み進める内に、味わいどころが判って来た。 こうなると俄然面白くなって来る。

一話ずつ読みきりの短編集なのだけれど、中でも冒頭に固められた十編のド短編(文庫版で、各々が10頁前後程)が特に好い。 スカッと読める。 その代わりに、読んだ後なんにもアタマに残っていないけれど。
ストーリーに凝られても、話しが妙にややこしくなるだけで、たいして興味が湧かない。 キャラクターの設定や会話、雰囲気で読ませるタイプの短編集なのではないだろうか。 だから、斬九郎は、話しを目一杯切り詰めた掌編で最も冴える、と思うのである。

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April 22, 2007

背負い富士

 
 背負い富士

   山本一力著

      文芸春秋
 
 
山本一力の描く、清水の次郎長の生涯。
廣沢虎造の浪曲、映画やテレビ時代劇の次郎長ものに代表される、古典的な清水の次郎長観とは一線を画した、平成の次郎長伝である。

生涯の盟友、音吉を狂言回しとして、次郎長の出生から晩年までが語られるのだけれど、話しが妙に飛びがちになる構成に、いささかムリがあると思う。
大勢の子分集の内で、詳しく描かれるのは大政と石松だけだし、娯楽色は薄くていっそ禁欲的、ストイックとでも言ってみたくなるくらいに、淡々と語られるスタイルは、まあ斬新と言える。
物語の中では、次郎長がまだ侠客となる前の十代の頃に、空見、籾の目利き、狼煙、韋駄天、怪力、乗馬など、在野のエキスパート七人を拾い集めて、米相場の先物取引に打って出るところが特に面白かった。 次郎長を名乗る以前のエピソードに、もっとも心惹かれるというのは、ちょっと皮肉な気がしないでもないけれど。

相手に舐められちゃ、生きてゆけない侠客の世界。 でも、首尾好く喧嘩に勝ったとしても、役人の来る前に逃げる算段。 と、なかなかカッコ好くはゆかないのである。 山本一力版の次郎長譚は、フィクションながら、ある意味リアルに徹していると言え、従来の次郎長ものがウリにして来たような威勢の好さ、痛快なところがあまりない。

作者の関心は、その分、人情の機微を描く方に向けられているわけなのだけれど、とは言え、自分の中では昔ながらの、痛快な娯楽作品を期待していたところがあって、だからこの小説、いささかもの足りなく感じてしまったところがあるのも確かなのである。

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April 16, 2007

ダ・ヴィンチ・コード

 
 
  ダ・ヴィンチ・コード
  The Da Vinci Code
 
    ダン・ブラウン著
    越前敏弥訳
 
       角川文庫
 
 
言わずと知れたベストセラーを、今頃になって読んだ。
世界的な大ヒットをみた理由は、キリスト教(カトリック)の歴史と教義にまつわる意外史を取り上げた点。 ストーリーに沿って、キリスト教暗黒史みたいなものが次々と開陳されるところでしょうか。
でもそれは、この道に詳しい人ならば、今更なにを騒ぐかなあ、とでも言いたいところかもしれないし、(もしかしたら)こういうのは取り扱い注意事項だからして、ぞんざいに扱ってもらっちゃ困るんだよね、などと呆れ果てるかもしれない。
 
小説の主人公は碩学の米国人宗教象徴学者、そしてその相手役のパリジェンヌは、やり手の暗号解読官。 このタイプの小説には珍しいくらいの常識人で、保守的。 思いっきり奥手の人物にしているところが、キリスト教史についての露悪趣味と上手くバランスを取る結果になっていると思う。
筋立て、構成は巧みだし、登場人物の配置も気が利いているけれど、一方、アナグラムを使った謎解きなどは、英詩を解さない身にとっては、残念ながらちっとも面白くないのである。
このダ・ヴィンチ・コード。 面白い小説のひとつとしてあげるに吝かではないとしても、是非とも読まねばならない傑作、とまでは思わない。 とまれ、通勤の合間に読む本としては最適なエンタテインメントであった。
それに読後、キリスト教史について、ネットでいろいろと調べてみる切っ掛けにもなった。 薀蓄のネタとしては、実にエキサイティングな素材と言える。

よく、歴史ドラマ(NHK大河とか)などで、史実とは別に、ライターによって創作された事件や登場人物がストーリーに差し挟まれることがありますね。 視聴者に、これまでも史実だと思い込まれちゃうとマズイんじゃないの・・・・なんて心配になってしまうことがあるけれど。
それが、このダ・ヴィンチ・コードでは、小説の最初で(無節操にも!)ここに書いてあることはぜ~んぶ事実に基づいてますからねって謳っちゃってる。
まあ、これなど「私は嘘をついたことがありませんっていうウソ」みたいなもので、一々問題にするコトもないんだろうけれど。 とまれ、この冒頭の一文は、本作のキリスト教史に対するスタンスを暗喩している、いわば詞書みたいなものと想う。
それにしても作中、悪者一派みたいに描かれている実在の教団にとって、小説のヒットは災難だったしょうね。

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March 21, 2007

シェルタリング・スカイ

 
 
 シェルタリング・スカイ

    ポール・ボウルズ著

       大久保康雄訳
           新潮文庫
  
  
いやはや降参、である。 このアメリカの作家の代表作にはまったく不覚を取った。
なにしろ文章がもの凄く読み難い。 延々と開陳される主人公の内面描写も、文体があんまりカタくて、読んでいてほとほとクタビレてしまった。 この小説については、テキトーに読み飛ばしてしまった部分が少なくないことを、白状しておかねばならない。

おっそろしく晦渋な文体は、元々の英文からそうなのかもしれないけれど、翻訳のせい、ということもあるのじゃないかと想う。 この日本語版は1955年に初出のものを、90年代、ベルトリッチ監督による映画化を契機に文庫化されたようである。 出来ればその機会に、現代の読者に向けて全面的にリファインするべきではなかったか。  これで読みやすい翻訳になっていれば、素晴らしい小説なのであろうに。

第二次世界大戦の直後。 ニューヨークの有閑階級に属する若い夫婦とその友人、いわばセレブの三人が、北アフリカの砂漠地帯を旅する。
その砂漠の、凝った情景描写はフォトジェニックなもので、ベルトリッチ監督の映画の方もいつか見てみたいと想わせられる。
労苦の絶えない辺境の旅を続けるうち、やがて、そのその過酷な風土の中に飲み込まれてゆく主人公ら。 単調な前半とは対称的に、後半からは思いも寄らぬ展開をみせて、かなり読ませる。 これで翻訳がもう少しこなれていてくれればなあと、惜しくてたまらない気分である。

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March 05, 2007

今夜、すべてのバーで

 
  「今夜、すべてのバーで」   中島 らも 著

          講談社文庫  1990年
 
 
粋な題名に惹かれて手に取ってみたら、なんのことはない、アルコール依存症の闘病生活を描いた小説であった。 中島らもならではの、人を喰ったネーミングである。 小説の形を借りてはいるけれど、アル中で入院したこともある、本人の実体験が生かされているそうな。

飲んでのんで飲み続けたあげく、いつかアルコール依存症となっていた小島容。 酒の肴替わりに、アルコール依存症に関する文献を読み漁りつつ、酒を呑んでいたと言う屈折ぶりだけれど、これなど中島らも自身のエピソードなんだろうか。
小説は、そんな小島が酒で体をボロボロにしたあげく、ついに入院するシーンからスタートする。 担当医赤河の診察を受け、十数年ぶりに酒気なしで過ごす日々の始まり。
 
入院生活の徒然に語られる、酒徒小島容のアルコール漬け人生。 流石は中島らもで、思いっ切り機知に富んだ文章が、先へ先へと読み進ませる。
アルコールの害毒やドラッグに関するコアな記述が続くも、コワイもの見たさのような心理が働いて、次々頁をめくらせられるのである。 作者は小説中のそこかしこで豊富な知識を開陳し、スノッブなイメージを撒き散らしてくれる。
主人公による、何故自分は夜毎酒盃に向かい続けたのかと言う理屈には、一種の鋭利な切れ味があり、そして無闇に説得力があって、なにかにつけ暗示に掛かりやすい自分など、ついフムフムと感心して、主人公の肩を持ちそうになってしまう。

でも、ちょっと待った。 そのご立派な御託宣は、アル中でぶっ倒れた男が入院中のベッドの上で発してるんだよねえ?
この、ヒネたカッコ好さと、どうしようもないみっともなさの同居こそ、中島らもの真骨頂ではないだろうか、なんて、私は考えている。
アル中患者の小島容と、それを指導する立場の赤河医師と。 アルコール依存症と言う、カラダばかりではない、ココロの問題でもある病気を軸に、相対する二人を描き切る中島らものバランス感覚は見事と言う他ない。
   
  
   
小島容  「飲む人間は、どっちかが欠けてるんですよ。 自分か、
       自分が向かい合ってる世界か。 そのどちらか両方かに
       大きく欠落してるものがあるんだ。 それを埋めるパテを
       選びまちがったのがアル中なんですよ」
赤河医師「そんなのは甘ったれた寝言だ」
小島容  「甘ったれてるのはわかってるんですが、だからあまり
       人に言うことじゃないとも思いますが、事実にはちがい
       ないんです」
赤河医師「欠けてない人間がこの世のどこにいる」
  
   <中略>
 
赤河医師「あんた、自分が人とちがってる、と思ってるだろ」
小島容  「誰でもそう思ってるんじゃないですか」
赤河医師「いや。 どうも私には鼻持ちならんのだよ、はっきり言う
       とね。 たとえば、あんたは自分と他のアル中を比べて
       みて、どうだ。 自分はなにか特別にデリケートで、特別に
       傷つきやすくて、そのせいでアルコールに逃げたんだ、
       とか、そういう薄気味悪いことを考えてるんじゃないのか。 
       言やあ、天に選ばれしアル中、みたいな」
 
 
 
主人公、小島容の妙に斜に構えた思考、態度からは、ずっと昔に読んだ村上春樹の小説の主人公が思い起こされてならない。 村上春樹に中島らもというのも対極的な構図だけれど、それぞれの描く主人公の性格について連想を同じゅうするというのも興味深い話しではある。

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January 28, 2007

椿山課長の七日間

  椿山課長の七日間

    浅田 次郎著

          朝日文庫


渋谷の老舗デパートに勤める、椿山和昭(46歳)は、高卒叩き上げの婦人服売り場担当課長。
現場第一の誠実な人柄で、社運を賭けた夏のバーゲンを成功させるために、日夜奮闘の毎日を送っていた。 それが、不幸にもバーゲン初日の夜に突然の過労死を遂げてしまう。

そのまま成仏するには、なにしろ気懸かりが多すぎた。
突然死した働き盛りの男が、現世に残して来た心残りの数々・・・・小学生の息子とのお別れ、自分にはおよそ不似合いだった美人妻、先立ってしまった老父、開催中のバーゲンの売上、そして、あの世の係員(?)から椿山課長が現世で犯したと指摘されたある罪について・・・・の各々にケリをつけねば、とてもではないが死に切れない。
椿山課長はあの世の役所の計らいで、期限付きで現世に戻してもらうことになった。 同じように現世への執着から逆送を希望する二人、武田(人違いで殺されたヤクザ)、雄太(本当の両親を知らない小学生)らと供に。


作品全体を覆う、ユーモラスで、ちょっとユルめの語り口が好い。 主人公たちの運命はあまりにも過酷なのに、雰囲気はどこまでも清澄で、穏やかだら、お話しが少しも深刻にならずに済むのである。
どうあっても悲しみはつきまとうのだけれど、いつか前向きな姿勢で臨もうとする登場人物たちの一人ひとりも魅力だ。
あの世の役所の、いかにもの官庁っぷりがオモシロくて、この小説は出だしからしてすらすらと愉しく読めた。 現世には、なにしろ生前の姿で戻るわけにいかないから、椿山課長は女性の姿を借りる羽目になって、そんな課長の慌てふためきっぷりも可笑しい。

現世で過ごすことを許されたわずかな時間のなかで、生前は知らずにいた、自分を取り巻く人々の秘密に触れる椿山課長たち。 そこには、平々凡々な人生なんてひとつもない。

ラストに向かって、現世に逆送された三人、そして周囲の人々の運命がひとつに収斂してゆく展開は、やや強引かもしれないけれど、最後まで飽きることがなかった。

テーマは家族愛、そして、誇り。 いつもユーモアを忘れずに。 可笑しくて、小粋で、やがて哀しい。 素直に泣ける佳品でした。

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January 08, 2007

旅行者の朝食

「旅行者の朝食」 

  米原万里著

     文春文庫 (2002年)


作家であり、またロシア語通訳者でもあった米原万里さんの、食物に関するエッセイ集。
幼少時にチェコスロバキアの小学校に通い、長じてはロシア語通訳として第一線で活躍した米原さんならではの、ロシア・東欧の食事情についての薀蓄が興味深い。

それにしても、通訳とは、優れた語学力の他に、知性やユーモアをも要求される仕事なのでしょう。 骨太の筆致でぐいぐいと描くような文体は実に頼もしく、だからといって、押し付けがましさなど少しも感じないのである。

人間、こと食に関しては保守的なものである。 現代の日本に居ては、なかなか実感し難いの感があるけれど、歴史的に見れば、そういうことになる。
今でこそ欧風の料理に欠かせないジャガイモも、ヨーロッパの食卓に定着したのは、意外に新しい。 16世紀に新大陸からもたらされた当時から、救荒作物として期待され、国家の肝煎りで栽培を奨励されたものの、気味悪がって誰も食べてくれなかったのである。 ロシアにおいては、一般にまで浸透したのは、実に19世紀も半ばになってからのことであった。

米原さんがチョコスロバキアで過ごした小学生時代、たった一口食べただけで、その虜になったと言うお菓子、ハルヴァ。 爾来二十数年、仕事で訪れる各国でも捜すが、終ぞ再開出来ないその幻の味とは。

美味しいものの紹介ばかりではない。
この本の題名にもなった「旅行者の朝食」は、ソ連時代に多く出回り、でも、あんまり不味いんで誰も食べたがらなかったという缶詰の名前である。
不味いんだったら改良して美味しくするとか、あるいは生産中止にでもなりそうなものだけれど、そこは計画経済のことで、売れまいが、人気が無かろうが、同じ物をひたすら生産し続けた。 そのムダさ加減はロシア小噺のネタになっていたらしい。
こうなると、果たしてどんなに拙いのか、試してみたくなるというもの。(?!) 好奇心に駆られた米原さんが、買い求めた「旅行者の朝食」を開けてみると・・・・

ソ連ネタでは他このにも・・・・
グリム童話の中に、パンを踏んで地獄に堕ちた娘の、ちょっと怖い話しがあったのを覚えていますか。
国民を飢えさせないことをスローガンに掲げたソ連政府が、パンを格安で供給し続けた結果、皆パンを粗末にするようになってしまった。
硬くなったパンは惜しげも無く捨ててしまうし、家畜の餌よりも安いものだから、飼料の替わりにパンを与えて一儲けを企んだりする。 パンを、それこそ水溜りを跨ぐための踏み石代わりに使うみたいに浪費しはじめた。 で、経済的に立ち行かなくなったその国は、やがて崩壊したわけですな。
我が国だって、と米原さんは警鐘を鳴らす。 減反やら補助金行政で、農家の米造りへの誇りを失わせるようなことをしているではないか。 この国もまた崩壊への道を辿ってはいないか、と。

後半は国内編となって、米原さんとそのご一族の、見事な健啖ぶりをユーモアを交えて描く。 読んでいて、人間、喰わなきゃあなんにも出来ないわい、と思わせられるのである。
終章の「叔父の遺言」、そのお終いに来て、ホロリとさせるところがなんともニクイ。

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September 24, 2006

ねこに未来はない

  「ねこに未来はない」
     長田弘.著   角川文庫
 
 
オドケテるんだかニヒルなんだか、いまひとつ捉えどころのない、不思議な標題を持つこの本は、その昔、学校の図書室にあったのを見た記憶があるから、また随分と昔の作品と言うことになる。(実際、1970頃の刊行らしい)
その、表題ばかりが気になっていた本を、今回初めて、実際に手に取って読んでみた。 それで、永らく、この本のことを、子供向けの物語、それとも絵本かなにかと想い込んでいたのだけれど、そうではなくて、見方によっては深い含蓄のある、大人向けの私小説(多分)なのだということを、今頃にしてようやく知った。

本書によれば、一体、猫と言う生き物は、脳内の未来を知覚する部分が未発達であって、だから、こやつらは、自分の将来にバラ色の希望を抱くと言うことがない。 その替わり、先々に不安を感じたりすることも、またないそうで。 つまり、猫にとっては「今」しか考えられない訳だ。(そんなのは、なにも猫に限らないんじゃあないかって突っ込みも、あるかもしれないけれど) とまれ、猫を飼うと言うのは、そういう刹那的人生と寄り添いあって、生きて行くことなんだね。

それまで猫嫌いを通して来た詩人が、結婚して安アパートに所帯を構えると同時に、生まれて初めて猫を飼うことになる。 子供のいないこともあって、もう夫婦して夢中になって可愛がるのである。 小説は、その猫たちとの交流を中心に描かれるんだけれど、なにしろ二人とも猫のことなんて何も知らないもんだから、飼う猫、飼う猫を次々と行方不明にしたり、あるいは死なせてしまう。 このあたり、猫好きの人は、見ちゃあおれんでしょうね。 さして猫好きとは言えない私でも、こいつあ如何な最中と想ってしまうくらい。 よってこの本、愛猫家にはお薦めすることが出来ません。
 
文章からして、おそらくは渋谷のNHK放送センターの近くに居を構えていたと想われる作者。 そこに描かれる日常からは、1960年代も終わり頃の東京の街角を背景にして、無名の文学青年の姿(それもベタな)が浮かび上がって来る。 とは言え、高潔な理想と厳しい現実の狭間で傷つきもがく若く貧しい詩人・・・・なんて、如何にもありがちで自己満足的なパターンに陥らず、それはもう軽いかるい、そしてまた馬鹿っ丁寧なくらいの文体からは、逆に詩人のデリカシーと、現実を見詰める厳しい視線が伝わって来るのだ。
いや、そんな小理屈は別にしても、私はこの私小説を熱烈に支持したい。 その個性的な文体は、読み手の私をして、かつて他の小説からは見出すことの出来なかった、それこそネコにマタタビ的な魅力を発散している。

それにしても、ちょっとばかりまわりくどかありませんかね、この人の文章。 いや、そこがまた好いんだけれど。 おそらくはこの作者、2点間を歩くのに最短コースを選んだりしないね、絶対に。 きっと、細い脇道を好んで歩いたり、猫みたいに、自分だけのお気に入りのルートがあったりするんだ。 私には判る。 なにしろ、私もそうだから。

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August 22, 2006