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September 24, 2006

ねこに未来はない

  「ねこに未来はない」
     長田弘.著   角川文庫
 
 
オドケテるんだかニヒルなんだか、いまひとつ捉えどころのない、不思議な標題を持つこの本は、その昔、学校の図書室にあったのを見た記憶があるから、また随分と昔の作品と言うことになる。(実際、1970頃の刊行らしい)
その、表題ばかりが気になっていた本を、今回初めて、実際に手に取って読んでみた。 それで、永らく、この本のことを、子供向けの物語、それとも絵本かなにかと想い込んでいたのだけれど、そうではなくて、見方によっては深い含蓄のある、大人向けの私小説(多分)なのだということを、今頃にしてようやく知った。

本書によれば、一体、猫と言う生き物は、脳内の未来を知覚する部分が未発達であって、だから、こやつらは、自分の将来にバラ色の希望を抱くと言うことがない。 その替わり、先々に不安を感じたりすることも、またないそうで。 つまり、猫にとっては「今」しか考えられない訳だ。(そんなのは、なにも猫に限らないんじゃあないかって突っ込みも、あるかもしれないけれど) とまれ、猫を飼うと言うのは、そういう刹那的人生と寄り添いあって、生きて行くことなんだね。

それまで猫嫌いを通して来た詩人が、結婚して安アパートに所帯を構えると同時に、生まれて初めて猫を飼うことになる。 子供のいないこともあって、もう夫婦して夢中になって可愛がるのである。 小説は、その猫たちとの交流を中心に描かれるんだけれど、なにしろ二人とも猫のことなんて何も知らないもんだから、飼う猫、飼う猫を次々と行方不明にしたり、あるいは死なせてしまう。 このあたり、猫好きの人は、見ちゃあおれんでしょうね。 さして猫好きとは言えない私でも、こいつあ如何な最中と想ってしまうくらい。 よってこの本、愛猫家にはお薦めすることが出来ません。
 
文章からして、おそらくは渋谷のNHK放送センターの近くに居を構えていたと想われる作者。 そこに描かれる日常からは、1960年代も終わり頃の東京の街角を背景にして、無名の文学青年の姿(それもベタな)が浮かび上がって来る。 とは言え、高潔な理想と厳しい現実の狭間で傷つきもがく若く貧しい詩人・・・・なんて、如何にもありがちで自己満足的なパターンに陥らず、それはもう軽いかるい、そしてまた馬鹿っ丁寧なくらいの文体からは、逆に詩人のデリカシーと、現実を見詰める厳しい視線が伝わって来るのだ。
いや、そんな小理屈は別にしても、私はこの私小説を熱烈に支持したい。 その個性的な文体は、読み手の私をして、かつて他の小説からは見出すことの出来なかった、それこそネコにマタタビ的な魅力を発散している。

それにしても、ちょっとばかりまわりくどかありませんかね、この人の文章。 いや、そこがまた好いんだけれど。 おそらくはこの作者、2点間を歩くのに最短コースを選んだりしないね、絶対に。 きっと、細い脇道を好んで歩いたり、猫みたいに、自分だけのお気に入りのルートがあったりするんだ。 私には判る。 なにしろ、私もそうだから。

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September 20, 2006

鈴本・早朝寄席 06年09月17日

鈴本演芸場 二ツ目勉強会 早朝寄席 

2006年09月17日(日曜日) 午前10:00開演
 
 
日頃の習慣って奴はおそろしいモンで、日曜日だってのに、ついうっかりと7:00に眼が覚めちまった。 早すぎだって。 このところ疲れている筈なんだけれどねえ。
思い立って、鈴本の早朝寄席に出掛けることにする。 折りしも、三遊亭あし歌が一席伺うと言う。
 
 
 
三遊亭あし歌 「金明竹」
傘や猫を借りに来るところから始まる、寄席ではまず聴けないロングバージョンだった。 私はこの噺の前半が好きなので、こういうのは大歓迎だ。

さて「金明竹」と言えばやはり後半、大阪弁の言い立てが聴き処でしょう。
あし歌と言えば、以前に聴いた「鮫講釈」など、滑舌も見事で、かっ飛び落語野郎ってイメージがあった。 この「金明竹」でも、さては立て板に水で一気に捲くし立てるンだろうと聴いていたら、想いの外、丁寧な言い立てにしていたのが印象に残った。 なんでも、慣れない大阪弁に試行錯誤されたそうで、大阪弁のイントネーションに注力した分、丁寧な言い立てになったのかと想う。
 
この言い立て。 演者によってはスピード命。 のっけからギアをトップに叩き込んで、そのまま最後までフルスロットルで駆け抜けるってこともある。 まあ、速けりゃ好いってモンじゃあないだろうけれど、素人としては、ついそちらに期待が行っちまうんだよね。
要は、方向性の問題なのでしょうね。 限界ギリギリの速さでの言い立てを試すも好し。 逆に、無茶な運転はやらず、その分丁寧に、表情豊かに聴かせるのもアリってことではないでしょうか。 但し、後者を選んだ場合、華やかさ、聴き手へのアピールに幾分欠けてしまうのは、まあ、止むを得ない。
あし歌の場合は、言い立てもお終い近く、最終コーナーを抜けたあたりから猛然とダッシュを掛けるスタイル。 聴き手としては、徒に速さを求めるよりも、練った大阪弁の味わいの方に聴き耳を立てるべし。

一体、東京の寄席では、大阪弁のイントネーションと言うのが意外に高いハードルになっているようである。
私の場合、大阪の生まれで、幼い頃に一家で関西を離れたとは言え、両親は生涯大阪弁で通した。 毎日大阪弁に触れて育ったわけだから、自然採点が辛くなってしまうのは、まあ止むを得ないでしょう。
あし歌の語る大阪弁は、あっさりと品も好く、大阪人が聴いて嫌味に感じることもない。 まずは成功と言えるのではないか。
 
 
川柳つくし 「権助魚」
この噺、寄席で聴いていて、退屈してしまうことが間々あるのですよ。 冒頭のあたりを聴いただけで、なんだか先まで読めてしまって、こうなるともう、あんまり楽しめない。
その点、この権助魚は演出に工夫があり、フレッシュで、とっても楽しかった。 鮮度で勝負!
ぎょ!->うぉ!->ふいっしゅ!のギャグが可愛いや。 お内儀さんの悋気が、少しもヒステリックに聴こえないのも好かった。
 
 
三遊亭金翔 「そろぞろ」
この人の風貌って好きなんである。 ちょっと朴訥で、まあるくて、やわらかで。 好いよね。
噺の方もそれに相応しく、牧歌的とでも言うんですか? 聴いていて和んじまって。 それで、あんまり気持ちが好いんで・・・・ごめんなさい、ここいらから眠くなって来た。
 
 
柳家喬之進 「粗忽の使者」
金翔とは正反対に、シャープな風貌の噺家さん。 ゴメンナサイ。 この噺も、ユメウツツに気持ち好く聴いてました。 それにしても毎度ながら、地武太治部右衛門さんの忘れん坊大将ぶりは、他人ごととは思えないねえ。
 
 
寄席がはねて、表に出たら未だお昼である。 まずは飯喰って、それからナニしようか。
早朝寄席って、一日が永く使えて有難いですな。

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September 10, 2006

ネット歴10年

この「問はず語り」はココログベーシック、つまり@niftyのサービスを利用している。 ブログを始めるよりもずっと前からニフティのユーザーであり、自分にとって一番身近なプロバイダーだったからと言う理由で、「問はず語り」も@niftyを選んだのだった。
で、そのココログ。 一時はトラブルが相次いで、とてもじゃないけれど使用に耐えなかったことは既に記事にしたことがある。 その折は「問はず語り」も他のプロバイダーに乗り換えようかと本気で考えたりしたものだけれど、それも最近は随分と改善されて、今ではもう、乗り換えようなんて考えることもなくなっている。 まことに、結構なコトでありますね。
その@niftyから先日、私のところにこんなメールが届いた。
 
 
<弊社サービスを長年にわたりご愛顧いただき、誠にありがとうございます。 2006年9月8日は、もとよし様が@niftyにご入会されてから、ちょうど10周年となります。>
 
 
私の場合、ニフティ歴=ネット歴になるからして、ネットに参加し始めて、もう10年になると言うワケか。
10年前と言うと、@niftyもまだニフティ・サーブを名乗っていた。 そして、まだまだパソコン通信が盛んであった頃でもある。 初めて自分用のパソコン(Windows95機)を買い込むのと同時にニフティに加入して、早速インターネットとパソコン通信の両方を始めたのだ。 その頃はインターネットよりもパソコン通信の方を面白く感じて、幾つかの会議室に入り浸っていたもので、結局、ニフティのパソコン通信とはその末期まで付き合うことになる。
 
そしてこのブログ。 2004年の11月に始めているから、お陰さまで、間もなく開設二年目に突入する。 節目の10年なんて言うけれど、私のネットライフの方は、馬齢を重ねてますます混沌とするばかりである。

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September 07, 2006

結膜下出血

今日の午後、職場でのこと。
隣席の人から、「左眼から出血しているよ」と声を掛けられた。 さては寝不足かなにかで充血でもしているのかと想ったけれど、しかし只事ではないような口調で言われたので、慌てて手洗いに駆け込んだ。
さて、鏡に映ったオノレの姿を見て、そりゃあもうビックリしたのなんの! 左眼の白目の部分、その目玉から左側がまっ赤っ赤なんである。 こうなるともう、充血どころではなくて出血でしょう。 白目ではなく赤目。 血まみれ。 おそるおそる左眼を指で触れてみたけれど、体外に出血しているわけではなかった。それに、感覚的には、左眼は痛くも痒くもない。 むしろ、寝不足が続いたりした時の方が、今よりも余程痛むくらいである。 それに、視力も普段通り、極々普通でなのある。

とは言え、それこそ只事でない出血っぷりを見て、流石にコワクなって来た私は、職場近くの眼科医院に駆け込みましたよ。 診療は実にあっさりとしたもので、あっと言う間に終わった。 先生のお見立ては、特に問題ありませんとのこと。 なにかのショックで血管が傷付くと、こういう症状になるらしい。 左眼の出血も、一週間くらいで引いて行きますよと言われて、まずは一安心。

帰宅してネットで調べたら、これは、結膜下出血と言う症状で、よくあるケースらしい。 眼科関係のいろんなサイトに出ていた。 放っておけば、自然に治るし、特に心配はいらないと書いてあるのを読んで、またまた安心。

でも、ここしばらくはこの赤目状態が続くんだよねえ。 自分の人相が普段と比べて相当にワルイと言う事は(普段からワルイだろう、って突っ込みもありましょうが)、心得ておいた方が良いかもしれぬ。 今ならばホラー映画に出られますな。

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September 03, 2006

冥王星

冥王星が惑星ではなくなったと言う
なんでも、惑星の定義と言うものがあって、冥王星はそれを満たさないのだそうで。 単純に、太陽の周りをぐるぐる廻っている星と言うだけでは、どうやら済まないってことらしい。
  
ニュースで紹介されていた、冥王星の太陽系内での位置付けやら、特徴やらなにやらを考えると、まあ妥当な措置なのかとも想う。
これは素人考えだけれど、冥王星を惑星として認知しちまうと、近年、他に幾つか同じような境遇の子が発見されていて、いや、これから先幾らも増え続けて、治まりが付かなくなるだろうってんで、こうゆうことにせざるを得ないんじゃあないだろうか。

私が昔好んで読み漁った古いSF小説だと、太陽と、それを中心にした九つの惑星には家族のようなイメージがあった。 そして、各惑星に人々が暮らしたり、九惑星連合軍とか言うの設定もあったね。 SFの舞台としての冥王星は、あんまり遠いし特徴が乏しいしで、マイナーだったけれど、例えばヤマトの反射衛星砲なんて言う、実に秀逸なアイデアもあった。
なんだか冥王星がなくなっちゃうようで、寂しいとかの感情的意見はごもっともと想うけれど(私も、古いSFファンとしてそう想うしね)、しかし、今度のことで、旧い太陽系観(世間一般レベルが持つ)から、一歩進んだ見方が出て来れば、それはそれで好いのではないかと想う。

        ▽▲▽▲▽▲

巷間知られるように、ホルストの管弦楽組曲「惑星」は、各楽章が太陽系の、地球を除く各惑星を描いていながら、海王星止まりである。 つまり第1曲から第7曲には各々
  「火星、戦争をもたらす者」、
  「金星、平和をもたらす者」、
  「水星、翼のある使者」、
  「木星、快楽をもたらす者」、
  「土星、老いをもたらす者」、
  「天王星、魔術師」、
  「海王星、神秘主義者」
との表題が付いて、しかし冥王星は作曲されていない。
 
今度のことで、時代がようやくホルストに追いついた・・・・・のでは勿論なくて、作曲当時、冥王星は未だ発見されていなかった故、書きようがなかった訳だ。 もっともその後、ホルストの存命中に冥王星は発見されているわけなのだけれど、作曲者は、あえてこの第九惑星を追加してはいない。

ホルストの「惑星」の各曲の表題は、天文学的な意味ではなくて、これは占星術方面から来ているらしいのだけれど、それでも終曲の海王星には、如何にも太陽系の最果ての地と言う雰囲気が濃厚に出ていると想う。
そのラストは、女声合唱のヴォカリーズ、つまり「A~~~~、A~~~~」をずっとずっとずっと伸ばして、寂しげに、それこそ消え入るように全曲を閉じる。 音楽史上珍しい、フェードアウトして終わる曲である。 (クラシックだと他に、チャイコフスキーの「悲愴」が有名ですね)
これより先は、もう、ない。 本当に、ない。 まさに、最果ての地である。 第九惑星発見の知らせを受けた作曲者ホルストにしても、この海王星より先は、もはや書きようがなかったとみた。

        ▽▲▽▲▽▲

ところで、ホルストの没後にその先、つまり「惑星」に第八曲の冥王星を追加しちゃった人がいる。
その名は英国人作曲家コリン・マシューズ。 ホルスト協会の会長でもある。
実は私、この曲を未だ聴いたことがないのですよ。 世評、あんまり高いとはいえず、わざわざCDを買い求めようと言う気が起きなかったから。
実は、こんどの冥王星騒動(?!)に、偶々合わせたように発売された冥王星付きの「惑星」のCDがバカに売れているそうで、レコード会社としては、国際天文学連合さまさまと言うところではないだろうか。 クラシックファンがこの際、冥王星を聴いてみたくなる気持ちは判るし、実は私もそうなりかけている。
でも、例えば演奏会で「惑星」を聴くとしたら、果たしてどうかなあ。 冥王星を聴きたいだろうか? あの、聴き手をして最果てへと誘う女声合唱のフェードアウトのあとには、もう何も要らないって気がしている。 なにしろ「冥王星」を聴いたことがないのでナンとも言えないけれど、聴いて気に入るとは、多分想えない・・・・と言う、なんとも悩ましいところですナ。

        ▽▲▽▲▽▲

お終いに、その昔捻った「惑星」に因んだ短歌を並べてみます。 これこそ本当の蛇足。
 
 
詞書
< 英国の作曲家、GUSTAV HOLST(1874~1934)の代表作となる組曲「惑星」は、地球を除く太陽系の各惑星を管弦楽で描いた豪華絢爛の音絵巻である。 但し、この中には冥王星は含まれない。作曲の当時(1916年)この第九惑星は未だ発見されていなかったのである。>
 
 
 
  HOLST氏第九惑星書かぬままBS中継始まる時間
 
 
 
  絶へ間無しに戦火の報せ届きをる火星移住計画は未だか
 
 
 
  金星は明けに明星宵もまたみやうじやうとなり地には平和を
 
 
 
  翼ある使ひを見たか水星を翳めて飛んで落ちたイカロス
 
 
 
  良く働き良く遊ぶことそれなりに快楽主義の積もり木星
 
 
  
  日溜まりに昔語りす老人の廻り土星の輪のやうな子ら
 
 
 
  魔法使ひ屹度見詰むる水晶の球これもしも天王星なら
 
 
 
  海王星あまりに遠き星のゆゑAの行方を誰も知らざり
 
 
 
  冥王星描き残したHOLSTに宇宙旅行の切符捧げむ
 
 
 

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