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January 31, 2005

東京タワー

東京タワーに昇った。

普段から目にする機会の多い、と言うよりも嫌でも目に付く東京タワーだけれど、自分はと言えば、小学生の頃(気の遠くなる程の昔)に一度だけ昇った事があるだけなんである。 生憎と当時の事など、もう殆んど忘れてしまっている。 どうかすると、本当に昇ったのだかどうか、自分でも疑わしくなるくらいである。 でも、確かに昇ったんだ。 お土産の定番、東京タワーの置物と、特別展望台に昇れなくて残念だった想い出を持ち帰ったのだから。

さて今回、実に久々に昇った東京タワーの大展望台。 その眺望はと言えば、別にどうと言う事も無かったのである。 好く晴れていたので、確かに眺めは良かった。 レインボーブリッジやら羽田空港を絶え間なく発着する飛行機なども望める。 とは言え、150mの展望は、今では驚く程の事も無いと感じてしまう。 なにより、そこらじゅうに高層ビルが建っていて、自分の今居る場所とほぼ同じくらいの高さの建物を見せ付けられる形だ。 東京タワーは子供の頃そのままに建っていたけれど、そこから見下ろす風景の方は既に一変してしまっている。 小学生の頃は、それなりに感激したろうと思われる眺望を、今回は別の感慨を持って見回す事となった。

この日は快晴だった為か、展望台はかなりの人出である。 エレベーターが大変混んでいたので、子供の頃来て、昇らせてもらえなかった特別展望台は今回も諦める事にした。 いつかまた東京タワーに昇る機会があれば、今日見た光景と重ね合わせて、東京の変貌振りを実感してみたいものである。

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January 30, 2005

立川談笑 第39回月例独演会

2005年1月30日(日曜日)お江戸上野広小路亭

元々今日は別の用事で上野へ行ったのである。 それが、お江戸上野広小路亭の前で信号が変わるのを待っていたら、丁度これからこの会が始まるのに気が付いた! で、ついフラフラと吸い込まれてしまう事に・・・・ この忙しいって時に、ここで引っ掛っちまうとはね~! 寒い中を並んでいたら(と言っても長い間ではない)、行列の全員に談笑本人から手拭のサービスがあった。

立川談笑に付いて、実は全く知らなかった。 当然、その落語を聴くのもこの日が初めてなのである。 そもそも、これまで立川流の噺家の噺を一度も聴いた事が無かったんだからね。 無理もないけど。
今日は独演会と言う事で、さして広くも無いお江戸上野広小路亭を埋めているのはほぼ全員が談笑ファンなのであろう。その中に、談笑を全く知らない自分も座った。
この会、前座は無しで最初から談笑その人が現われる。と言うか、この会を通して、演じる芸人は談笑独りきりなのであった。 凄いエネルギーと思う。

立川談笑「金明竹」
風邪をひいてしまったそうで、ちょっと苦しそうに見える。 とは言え、今日はどんな具合にやろうかな、などと高座に座ってなお迷っている風が、余裕タップリの風格とも受け取れる。 てっきり真打と思い込んだんだけれど、噺を聴くうちにそうではないらしいと判ってビックリ。
長めのマクラで引き付けておいて「金明竹」へ引き込んだ。 「金明竹」はこれまでに何度も聴いているけれど、前半の、傘、猫、目利きを頼む件は今回初めて知った。 こんなに面白いのなら、もっと演じられて良いのに。 それにしても、旦那が与太郎を叱る(ひっぱたく)タイミングが最高だよ。 後半の達者な口上は東北弁。

立川談笑「時蕎麦」
時蕎麦も、これまで寄席で聴いたものにくらべて、演出にずっと念が行っている。 十六文のトリックに悩む辺りなど、ここまでやってくれたのを観るのは初めてで特に感心した。

立川談笑「蟇の油」
初めて聴く噺だった。 この噺、蟇の油の口上が眼目なんだろうか? そうではない気がする。口上はむしろ導入部であって、けれど、ここがしっかり出来てこそ、後半の、蟇の油売りの酔態が印象深いものになるのではないか。
談笑の口上は、それはそれで面白いけれど、立て板に水の完璧さを求めている訳ではないように思う。 その代わり、蟇の油売りの人物をしっかりと描いて、ラストの修羅場(?!)にまで見事に繋げている。

立川談笑「片棒・改」
これは、談笑ファンにはもとよりお馴染みの噺らしい。 今日ここまでの高座での印象と同じで、古典落語を自由に膨らませて談笑の世界を作り上げていると思った。 だから、「片棒」ではなくて「片棒・改」って訳か? これは取り分け得意なネタらしくて、大変好く練り上げられている印象であった。
噺の合間には古典落語のパロディ、下ネタ、楽屋オチ、時事ネタ、思い出話(子供の頃に流行ったモノとか)、から更にはミッキーマウスまで登場させるなど色々のギャグが矢継ぎ早に繰り出される。 ノンストップだ!
この辺り、容赦がないと言うか、うっかりしていると置いていかれてしまう。 自分にはそもそも全く判らないようなギャグもある。 談笑落語は、落語を誰にでも判りやすくとか言った、良くあるような配慮は殆んど顧みられ無いようである。 自分的には、こう言った聴き手にシビアな姿勢は、いっそ小気味好く感じる。

今日は、立川談笑と言う噺家を全く知らない状態からイキナリその世界に触れて、大変にスリリングな落語体験が出来たと思う。 こんな事って滅多に無いだろう。 大満足で、お江戸上野広小路亭を後にした。

立川談笑、近々真打に昇進するとの事である。 さて、応援して行きたい噺家がまた一人増えたぞっと。

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January 29, 2005

エックレスのソナタ(4)

今日は14時からのレッスン。 諸般の事情から、前回のレッスン以来、殆んど練習の時間が取れないまま次のレッスンに突入と言う最悪パターンである。 暗譜が課題となっている最中だけに、こうなると、もう一歩も進めなくなるのが辛い。

第一楽章。 それでもどうにか弾ける処までは来たと思う。 旋律がブツ切りになってしまうのと、譜面通りの強弱が付いていないのが難点である。 弾きながらその先を思い出すのに必死で、それ処ではないと言う話もあるけれど。

第二楽章は、やっと半分近くまで覚えただろうか? 未だ弾き通す事が出来ない。
先日から、階名を書き出した紙片を携帯して唱えるのと、1小節~1段単位に区切って繰り返し復習うと言う二本立ての暗譜対策を始めた処である。 その結果が出るのは、未だまだ先のことでる。 忍の一字でこれを切り抜けないことには、演奏を楽しむレベルまではいけないんだ。

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January 28, 2005

スルメ

回転する寿司屋の湯呑みにずらりと漢字で書き並べてある魚の名前の中にスルメを見つけた。 スルメって、鯣と書くんだ・・・ 魚類ではなし乾き物だしで、それでもしっかり魚編が付いて、寿司屋の湯呑みに載っているのが可笑しい。 辞書を引いてみて、この名はスルメイカ(鯣烏賊)から来ていると知った。 寿司屋の湯呑みにあった「鯣」も、やっぱりスルメイカの事なのかなぁ。 ちょっと気になっている。 
それにしても、魚編に易と書いてスルメ<魚易>ってのは判るような、そうでもないような・・・ ともあれ、寿司屋の湯のみってのは面白いねぇ。 いろんな魚があって、見ていて飽きないよ。 よし!じゃあ、魚編に貫と書いてメザシ<魚貫>ってのはどうだ!?

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January 27, 2005

階名を唱える

練習中のエックレスのソナタ、第一楽章と第二楽章を憶える為に、階名を紙片に書き出してみた。 ここ暫くは、暇さえあればこれを唱える事にする。 この方法は楽器が要らないので、何時でも、それこそ通勤電車の中でも出来るのが利点である。 さて、どのくらいの日数で憶え込めるだろう?

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January 26, 2005

勉強のお手伝い(2)

と言う訳で、引き続いて勉強のお手伝いである。
磁気テープやら磁気ディスクやらの計算に付いて。 この辺は昔と変わってないね。 メディアが色々と交替してはいるものの、基本的な処は同じって事を確認して、独りでホッとしたりしている。

勉強のお手伝いをこなす一方で、週の半ばにして既にダレて来ている自分を実感する。 忙しい中で、時間の遣り繰りも然ることながら、持久力や集中力の配分とか、常に気に留めておかなければならない。

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January 25, 2005

勉強のお手伝い

友人から頼まれて試験勉強のお手伝いをしている。 確立や順列・組み合わせ、二進数とか昔やったものばかりで懐かしい・・・な~んて言ってもいられないのである。 なにしろ、この間からいろいろと建て込んでしまって、忙しい事この上ないのだ。 自分の周囲のあちこちで、いろんな物事がつっかえ始めているのかもしれない。 頑張りすぎて墓穴を掘るってのは、もう無しにしたい。

ともあれ、頼られちゃったものだから、無い時間から割けるだけ割いて協力する事にした。 近いうちに、友人から良い報告を聴きたいもんだ。

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January 24, 2005

どうやって覚える?

現在練習中のエックレスのソナタ。 その第一楽章、第二楽章を暗譜する方法に付いて考えた。

暗譜というものは、繰り返し何度も弾いている内に、気が付いたら何時しか覚えていたという状態が理想的と思う。 覚える為に弾くのではなくて、弾いている内に覚えると言うこと。 但しこれは、無理なく伸び伸びと弾ける状態に居なければ実現しないであろう。 今の自分のように、つっかえ、つっかえ、やっと弾けると言うレベルでは土台無理なんである。

階名で唄って覚えると言う方法がある。 楽譜に固定ドで階名を振っておき、それを歌詞にして何度も唄って覚えるのである。 チェロの場合は、運指やポジション移動、弓順に付いてはまた別に覚えねばならない。 この方法の長所は楽器が無くても出来る事で、それこそ通勤の電車内でもアタマの中で反芻して(口に出して唱えたりすると不気味がられるよねぇ!)復習する事が出来るのだ。 実はこの方法、以前に他の曲で試みた事があるのだけれど、一旦やり始めると結構大変な作業になるので、なかなか踏み切れないでいる。

譜面をイメージとして捉えるのも一つの方法である。 音符の一つ一つを読んでいくのではなく、大きく図形として理解していく。 とは言え自分の場合、余程印象的な、記譜に間違いがあったとか装飾音符を書き加えたとかした場所に付いては流石に記憶に留めるけれど、全体を画像として隈なくコピーすると言うのは無理である。 人によっては、アタマの中に譜面が映像として浮かんでいたりするらしいけれど、自分の場合はこの種の記憶力は未発達のようなのだ。

ここ数回のレッスンで先生から指導されているのが、1小節~1段くらいの単位に区切って、とにかく覚えてしまうまで繰り返し弾くと言う方法。 実はこのやり方、音楽をブツ切りにするようで自分はあまり好きではない。 自分の中には音楽を全体的な流れで捉えていきたいと言う願望があるらしく、ついついこのやり方に逆らって、長いフレーズを弾きたがる嗜好があるのだ。 とは言え、背に腹は替えられない訳で、ここ暫くはこの練習法を励行する事にしようと思っている。

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January 23, 2005

エックレスのソナタ(3)

今日は20時からレッスンだった。 生憎と夕方から霙が降り始めて、外に出たらおそろしく寒かった。 こんな時間にレッスンを入れてしまったのは、まったく不運と言うしかない。

第一楽章を弾いて、それをテープに録音した後、先生と一緒に聴いてみる。 自分の演奏を録音して聴くなんて苦痛以外の何物でもない訳だけれど、この際そうも言ってはいられないのである。
繰り返しの部分を、二度目は pp で弾く事になっているのが、殆んど mf になっている事を指摘される。自分で弾いている感触としては、充分に音量を落としていると思っていたのだが、その程度の下げ方では全然足りないと言う訳である。
その他、表現しようとする意志がまるで伝わって来ないとの指摘もあったが、これは要するにまだまだ復習い足り無くて、音楽が手の内に入っていないと言う事なんだと、自分でも良~く判っている。

第二楽章は旋律がブツ切れになってしまう。繋げるべき箇所は奇麗に繋げて音楽を造ってゆく事。 前回と同様、第二楽章の途中から楽譜をほぼ一段ずつに分けて暗譜で弾かされた。
これが、全然弾けない。 独りで復習ってそれなりに弾けると思っていた部分が、レッスンの場ではほぼ全滅である。 1小節~1段くらいの単位に区切って、繰り返し弾かされる。
レッスンの場で暗譜の練習をするくらいバカな話もないもんだが、事実弾けないんだから仕方ない。 とにかく、このままでは一歩も前に進む事が出来ないのだ。 先生と相談して、次回までに、自分にとって効果的な暗譜の方法を考えて来る事になった。

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January 22, 2005

アダージョとロンド・コンチェルタンテ

今日はシューベルトの「アダージョとロンド・コンチェルタンテ」の練習に参加して来た。 Vn、Va、Vc.、Pf.の編成。 この曲は、昨年12月11日のピアノオフで弾いた訳なのだけれど、その際一緒に演奏したヴィオリストから、今日の練習会でチェリストの都合が付かないから、その代奏をしないかとの連絡が入ったのである。 室内楽をする機会に恵まれない折でもあり、二つ返事で引き受けたのは言うまでもない。

このアンサンブル結成の中心人物とも言うべきヴィオリストを要として、それ以外の3人は各々が初対面と言う、スタートしたばかりのアンサンブルである。 ヴィオリストとチェリストはピアノオフの時と変わらず。 ヴァイオリニストとピアニストが新しいメンバーと言う事になるけれど、ピアノオフの時とはテンポや表現に随分と違いがあって興味深い。 練習の進め方に付いても然り。 いずれにしても、こういった各楽器の名手との共演からは学ぶ処が多いのだ。 気持ち好く弾けて、幸せな一時を過ごす事が出来た。

今日のメンバーは今後、正規のチェリストと共に更に数度の練習を重ねる積もりとの事である。 新アンサンブルのスタートに心からの声援を送りたい。

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January 21, 2005

ステレオグラム

別に真剣に悩む程の事ではないけれど、自分は昔からステレオグラム(ステレオ写真、立体写真などとも)を観賞するのがもの凄く不得手なんである。
で、昨日職場の同僚に教わったのが(今頃になってかよ!)ランダム・ドット・ステレオグラム(RDS)と言う奴である。 それまで観る度に梃子摺っていた、平行法とか交差法のステレオグラムなどとは違い、これは自分でも直ぐに楽しむ事が出来るのだ。 すっかりハマってしまった。
一見して不規則な点の集まりや、本題とは全く無関係な絵柄を見詰めていると、やがて立体が浮き出て来る。 正に、異世界を垣間見る感じだ。
平行法や交差法が、いろいろと試してきて駄目だったのに、ランダム・ドット・ステレオグラムだとどうして上手く観賞できるのか、自分でも良く判らないでいる。 そもそもが、どういった原理で立体的に感じているのか理解していないのだから、仕方ないけれど。

だんだんと、思い出して来たぞ。
そもそもステレオグラムの事を、自分は尾辻克彦の「カメラがほしい」と言う本で知ったんだ。 この本は、ずっと以前の事、北海道へ渡るフェリーの休憩所に置いてあったのを読んだ。 何しろ船中は暇である。
ステレオカメラ、立体写真と言うものは、一般にあまり知られていないにせよ、それこそ大昔から存在する。 「カメラがほしい」には、立体写真の作例として第二次世界大戦前に撮られた、歴史的に貴重な写真もあったと記憶している。 それは平行法だったと思うけれど、ともかく、どんなに頑張っても自分には立体視は出来なかったんだ。
だから、昨日になって突然、ランダム・ドット・ステレオグラムの世界にすんなりと入れてしまった事は、実に新鮮な驚きだった。 異世界を覗く扉の鍵を手に入れた、なんて言えば大袈裟に過ぎるけれども。

「カメラがほしい」を読んだ数日後、北海道から帰る際にも偶然に同じフェリーに乗った自分は、またしても同じ本を手に取った。 都合二回読んで立体写真もさんざ眺めたけれども、その時は、とうとう立体視は出来なかった。

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January 20, 2005

「猟奇の果」

「猟奇の果」江戸川乱歩著(江戸川乱歩全集 第四巻 講談社)を読んだ。

ごく普通に生活する市民、もしもその前に瓜二つの人物が現れたり、さらに本人を名乗って勝手に動き回るとしたら・・・と言う不安を中心に据えた作品で、二部構成となっている。

前篇「猟奇の果」
最初、犯人の意図がなかなか見えて来ない事もあって、どこと無くユーモラスな(あくまで乱歩にしてはであるが)雰囲気を湛えてさえいる。 退屈で退屈で堪らぬと言う主人公の設定もなかなか好い。 小さな事件が連続する中で、主人公が次第に追い詰められて、この先は一体どうなると言う処で終わってしまう。 自分的には悪くない展開と想った。

後篇「白蝙蝠」
後半では名探偵明智小五郎が登場。 これと同時に、作風もガラリと変化して捕り物が中心となってしまう。 なってしまうと書いたのは、それだけ不満があるからで、明智小五郎ものとなった後半には、前半にあった趣が少しも生かされていないからである。 前後篇を、各々全く異なる二つの作品と思えば、その方がより楽しめるかもしれない。 後篇がこうなったにあたっては、著者や出版社の事情がいろいろとあったようで、後世の読者としては、その辺りも鑑みて味わうのが良いのかもしれない。

先日読んだ「孤島の鬼」が感銘深かっただけに、我ながら今回は点が辛くなってしまったなぁ。

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January 19, 2005

秋葉原と書いてアキバハラ

落語家、柳家小袁治さんの日刊マックニュース平成17年1月17日(月)号で秋葉原の読み方に付いて触れられていた。

小袁治さんに寄れば昔、秋葉原は「アキバハラ」と呼ばれていたと言う。
これ即ち、○○○原と言う地名がある場合、江戸言葉では「○○○ハラ」または「○○○ッパラ」とは言っても、「○○○バラ」とは呼ばないのである。 だから自然、秋葉原も「アキバハラ」と呼ばれていたと言う訳だ。
この原則からいくと、例えば「アキバッパラ」とも呼べる筈だけれど、現在のような「アキハバラ」と言う呼び方はあり得ないのである。

秋葉原と書いてアキバハラと読むって話は、昔どこかで聴いた気もするけれど、落語家、柳家小袁治師匠の言ともなると、また説得力が違うではないか。 今の「アキハバラ」は、本来の江戸言葉の発音が、多数派の使う、所謂標準語に喰われてしまったと言う事なのかもしれない。 電気の街として全国区に昇格した代償みたいなものか。

因みに、落語「牛ほめ」の中で与太郎がエラソーに「秋葉様(アキバサマ)のお札をお貼ンなさい。」(何処にだい?)と言う、その秋葉様は電気街の秋葉原とは違う、静岡県周智郡秋葉山頂にある秋葉神社の事で、防火の神様として信仰を集めている。 【追記:その後調べてみたら、静岡のとは別に、もともと当地にも秋葉神社があったのが、秋葉原駅建設の際に台東区松が谷に移転したとの事であった。 だから、「牛ほめ」で与太郎の言う秋葉様ってのは、秋葉原の辺りにあった頃の秋葉神社を指すんじゃないかと思う。】

登山で有名な北アルプスの白馬岳もまた、異なった読み方が定着してしまった例と言えるだろう。 「日本百名山」の深田久弥からして嘆いている。 白馬岳(元々は代馬岳らしい)は本来「シロウマダケ」と読むけれど、麓には白馬村と書いて「ハクバムラ」や白馬駅と書いて「ハクバエキ」がある。 そのお陰か、白馬岳まで「ハクバダケ」と呼ばれる事が少なくないのである。

それはそうと、自分は上京して間もない学生時代に秋葉原をうっかりアキバハラと読んでしまってバカにされた事がある。 以来、これがトラウマとなって、「アキハバラ」と口に出して言う度に若干の緊張感を伴うのだが、実は、どっちでも良かったんじゃないのか。 なんか損した気分だよ~。

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January 18, 2005

C.P.E.バッハ:フルート・ソナタ集

カール・フィリップ・エマニエル・バッハ作曲、フルートとチェンバロのためのソナタ集のCDを聴いた。

 カール・フィリップ・エマニエル・バッハ 1714~88 (C.P.E.BACH)
  フルートとチェンバロのための5つのソナタ
   ベーラ・ドラホシュ(fl)/ジュジャ・ペルティシュ(cemb)
    第1番ニ長調Wq.83
    第2番ホ長調Wq.84
    第3番ト長調Wq.85
    第4番ト長調Wq.86
    第5番ハ長調Wq.87
     NAXOS Classics/8.550513

CDそのものは、大分以前に買い求めてあったものである。 買った当初に何度か聴いた事と思うけれど、以来忘れ去って、ずっと家の中に転がっていたのだ。 それが先日、他のCDを捜している途中でふと眼に留まった。 CPEバッハのフルート作品と言うことで、昨年に山手111番館のクリスマスコンサートで同じ作曲家のトリオソナタ G-Dur Wq.153を吹いたのを思い出した訳だ。 CDの収録作品の方は、何しろ長らく放り出してあったくらいだから、一体どんな曲だったかなど全く忘れている。 興味が湧いて、早速CDプレーヤーに突っ込んでみた。

どの曲も耳に心地好いもので、のんびりと聴いていたのが、第4番ト長調Wq.86 に来て愕然としてしまった。 が、

あ~、なんて事だろう!

これは、先日の山手111番館のクリスマスコンサートで吹いた、まさにあの曲だった。 トリオソナタ G-Dur Wq.153 は、フルート+チェンバロ版だと フルート・ソナタG-DurWq.86 になるんだ! こういうCDが我が家に転がっていて、今頃になってそれに気が付くとはね。 まったく、我ながら呆れるしかないよ~。

CPEバッハのこの曲集、何れも強烈な主張や印象的な旋律などには乏しいけれど、何度も何度も繰り返し聴き込む内に、穏やかな曲想や抑制の効いた表現が気に入るようになった。 大バッハのフルート・ソナタのようなヘビーさの無い分、軽い気分でゆったりと楽しめる。 身を乗り出して聴くと肩透かしを食らうけれど、その代わり「ながら」で聴いていると、とっても快適なんだ。

演奏の方も、また、虚飾に頼らない滋味豊かなものである。 禁欲的と言って差し支えないくらいかとも思う。 だから、「もしも自分が吹いたなら、ここはもっと派手にやるのに!」なんて思わせられるような歯痒ささえ感じる。 けれども繰り返し聴くうちに、やがて奏者の付ける微妙なニュアンスに納得させられるようになった。 このCD、今では立派な名演と想っている。 派手さと説得力とは、また別物なのである。

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January 17, 2005

鈴本演芸場新春寿寄席

2005年1月16日(日曜日) 鈴本演芸場 <昼席>

今年に入って初めての寄席通い。 末廣亭と池袋演芸場を掛け持ちする小三治にも心引かれるのだけれど、今回はトリの圓菊が目当てで鈴本に向かった。

この日は最初から客席の入りが良いな~。 舞台下手には立派なお正月の飾りが置いてあった。 個人的には正月気分なんて微塵も残っていないのであるが、寄席的にはまだまだ正月興行の続きと言う事らしい。 客席の反応も割合に良かったけれど、ちょっとざわざわし過ぎと思った。

開口一番 古今亭ちよりん「狸の鯉」
以前から高座返しで姿を見せていたちよりん。 前座として噺を聴くのはこれが初めてになる。 へえ、高座ではメガネを外すんだ・・・
噺の方は、如何にもデビューして間もないと言う様子で、まだまだ硬い感じである。 登場人物を全て女性にしていた。(仔狸に付いては性別不明)

古今亭菊朗「転失気」
悪戯坊主の珍念は、菊朗のキャラに会っていると思うな。

柳家とし松 曲独楽

古今亭菊輔「寿限無」と踊り「かっぽれ」
菊輔の「寿限無」は以前にも聴いて、その時にはあんまり好い印象が無かったんだけれど、それよりもずっとずっと好くなっている。 覇気があって、噺をグイグイと引っ張ってゆくんだ。 一体どうしたんでしょうね~。 噺の内容も、所々変えているようだし。 お終いには「かっぽれ」をサービスして、更に、去り際には投げキッス。 菊輔を大いに見直した一席であった。

柳家喬太郎「仔褒め」
昨年、新作を聴いてそのファンとなった喬太郎。 今回は古典落語で、それも自分にとってお馴染みの「子褒め」である。 それにしても流石、聴かせるなぁ~。 新作を語る時に感じた、才能のキラメキ、感性のスルドさなどがここでも生かされていて、滅多に聴けないようなスリリングな「子褒め」になっていた。 良く知っている噺だけに、「喬太郎はあそこの処をどう語るのかな?」なんて、一々期待してしまうのだ。

橘家圓太郎「初天神」
圓太郎はすっかりファンになってしまった。 今回も金坊の駄々っ子ぶりが可愛いよ~。 御手洗団子の丁寧過ぎる食べ方には客席中で大ウケであった。

大空遊平・かほり 漫才

金原亭馬の助「かつぎ屋」と百面相

古今亭菊春「替わり目」
マクラは声が小さくて酷く聴き辛い。 やるきあんのかー!と思った。 それが、女房にこっそり感謝の言葉を吐露する辺りで俄然好くなる。

花島世津子 奇術
癒し系マジシャンの世津子さん。 ヘアースタイルを変えたッスね。

入船亭扇好「権助魚」
明るい雰囲気の扇好だから、権助のしたたかさがちっとも憎たらしく思えないんだよね。

古今亭志ん弥「湯屋番」
キビキビとして要所要所をしっかり決める「湯屋番」である。 でも生憎と、この辺で眠くなって来た。

鏡味仙三郎 太神楽
今日はいつもの仙一と仙三はお休みで、仙三郎の独り芸だった。 普段ならば他の二人に任せている傘の曲芸も仙三郎がやったのである。 これ、実は(と言うか、当然か?)仙三郎が一番上手いのではないか。 土瓶の芸も見事で、さすが!

古今亭駿菊「幇間腹」
駿菊の「幇間腹」はどこか大らかな処があって好い感じだ。 但し自分的に、この噺に付いては昨年聴いた菊丸の印象が凄く強いんだよね。

入船亭扇遊「道具屋」
扇遊、ちょっとノッてない感じか。 また、眠くなって来た。

林家二楽 紙切り
OHPを用意して、切り上がった紙を背後に投影して見せていた。 但し、自分の座った席から見る場合、丁度メクリと重なってしまって、上手く見る事が出来なかった。 OHPを使う場合は、メクリの位置を工夫するように配慮して欲しい。 > 鈴本演芸場

古今亭圓菊「井戸の茶碗」
圓菊の「井戸の茶碗」を聴くのはこれで二度目になる。 自分にとっては、圓菊は小技の人である。 幾分テンポ感に欠ける処があって、屑屋が二人の侍の間を行ったり来たりする辺りなど、少々もどかしくなるところがある。 その代わり、噺の途中に織り込んだギャグの一つ一つが、もう堪らなく可笑しいんだ。 終盤に来ると、俄然勢い良く流れ出して大団円にまとまった。

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January 16, 2005

国芳・暁斎 ~なんでもこいッ展だィ~(再訪)

冷たい雨の降る日曜日。 先日観た東京ステーションギャラリーで開催中の「国芳・暁斎 ~なんでもこいッ展だィ~」があんまり好かったので、今日もう一度行って来た。 今回は午前中に入ったお陰で、ガラ空きとまでは言わないものの、ゆったりと観て廻る事が出来たのである。

「新富座妖怪引幕」には、相変わらず圧倒されてしまう。 思い切ったタッチで迷わずグイグイと書き殴って行ったであろう暁斎の気迫が伝わって来るんだ。
猫を描いた絵が好きで、今回も熱心に見入ってしまう。(1月9日のブログで暁斎の猫好きに付いて触れたけれど、国芳も負けず愛猫家のようある。 猫を擬人化した絵などすっかり気に入ってしまった。)今回はその他に武者絵や風景画、美人画などに絞って楽しんだ。 女性の着物の柄として書き込まれた細かな意匠など、観ていて呆れてしまうくらい凝りに凝ってをり、こんな処からも絵師達の飽くなき創作意欲を感じる。

午前中と言う事で入館者が少ないお陰で、国芳と暁斎とをゆっくり見比べてみると言う事も、今回は出来た。 浮世絵に付いては全く疎いので、どこがどうとか言う事は出来ないのだけれど。

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January 15, 2005

エックレスのソナタ(2)

今日は10時からレッスンだった。 家を出ると細かい雨が降っていて、酷く寒い。 でも、雪にはならないだけ良かった。

月曜日からこっち、平日は全然と言って良いくらい復習う時間が取れなかったのが辛い。
レッスンが始まると早速、エックレスのソナタの第一楽章の全部と第二楽章の途中まで、楽譜をほぼ一段ずつに分けて暗譜で弾かされる。 まだまだ全然弾けていない段階だからして、これは凄くキツイ。
前々から問題になっている話しではあるけれど、自分の場合、ポジションの感覚がひどく曖昧になっていて、その分、左掌の動きに無駄が多い事を指摘された。
これに、運指に間違いが多いって事が加わって問題を複雑にしている。 いや、運指に付いては間違いと言うよりも、弾く直前まで、本当にコレで良いのか迷ってしまって、迷い箸みたいな事になっているんだ。
目下のところは練習不足が一番の問題で、音楽をどう表現するべきか、なんてまだまだ先ってのが、なんとも寂しい話しではあるよなあ。

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January 14, 2005

「孤島の鬼」

「孤島の鬼」江戸川乱歩著(江戸川乱歩全集 第四巻 講談社)を読んだ。

これまでに読んだ乱歩作品(と言っても、大した数ではないけれど)の中では最も楽しめた。
主人公は花の東京に暮らす極々平凡な、金も力もなかりけりの優男である。 それがある日、得体の知れぬ犯人によって、理由も知れないまま恋人を殺されてしまう。 そして名探偵が登場するも、彼もまたあっさりと殺されてしまう。 この辺りは乱歩作品に良くある流れと思うけれど、主人公の手記の形を取っている分、恋人を殺された苦悩や、犯人に振り舞わされる恐怖がダイレクトに伝わって来るのだ。
途方に暮れる主人公を救うべく、次は友人が名探偵役を買って出るのであるが、この男、例えば明智小五郎などと違って、マイノリティとしての負い目を背負っている。 この謎めいた男の存在が、小説全体にダークな色合いを与えていると思う。
それにしても、二人が手に入れた人外境便りの不可思議な美しさと来たらどうだろう。 中世の音楽や絵画に見るような無心な境地から成っていて、この部分は、けだし圧巻と思うのだ。

後半は、主人公達が犯人の住まう孤島に乗り込んでの冒険談となる。 探偵小説から冒険小説へと、ガラリと様相が切り替わる訳で、読者である自分にも気合が入る。 舞台となる小島は、本土とは隔絶された一種異様な世界である。 ここでは作者の筆も、トリックなどよりも背景を描くのに熱心のようである。 大勢の不具者が登場するのは如何にも乱歩らしいと言えるけれど、彼らマイノリティを哀しい存在として捉えている処が、これまでに読んだ乱歩作品に見られなかった点であり、物語に奥行きを与えていると思う。

孤島での冒険を終えた主人公の黒髪は、僅かの内に真っ白に変じていた。 もしかしたらこれは、主人公が不具者達の世界に近しくなったと言う意味なのかもしれない、と思った。
それにしても作中、不具者=悪人と言う方程式で作品世界を作り上げているかに見えた作者が、最後に至って、決してそうではない事と言うが知れるのである。 物語のお終いは、これまでに読んだ乱歩作品には見られない感傷的なもので、読んでいて心を打たれた。
これは、異形のロマンスなのである。

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January 13, 2005

大阪弁

テレビのドラマやなんかでよくある、大阪の人間と言う役柄で、非大阪人の役者が喋る大阪弁と言う奴がひどく苦手である。 こう言うと、自分は生粋の大阪人のように思われるかもしれないけれど、そういう訳でもない。 普段は、いわゆるヒョージュン語を使っているくせに、両親が共に大阪人で、自分自身も幼年時代を大阪で過ごしたものだから、大阪弁と言うものがべったりと身に張り付いてしまっているんだ。 今でも、大阪在住の親戚と会って話すと、自分のアクセントも次第に大阪弁風になって行く。 そして、そういう事が自分の中では何の違和感も伴わなかったりする。 だから、非大阪人の語る大阪弁の科白が気になって仕様がない。 下手をすると、聴くのが只々苦痛だったりする。

東京の寄席で良く掛かる前座噺の一つに「金明竹」がある。 この中で、使いの者が上方弁の口上を早口でまくし立てて与太郎を煙に巻くくだりがあるけれど、ここのところを随分と酷いアクセント(もはや何弁とも言えない)で聴かされる事がある。 子供の頃から、テレビで大阪弁の漫才などをさんざ聴いて来たであろう若い前座さんでもそうなんだ。 この辺の事情が、自分などには良く判らないでいる。 上方弁のアクセントに関する限り、意識が低すぎやしないかと思う。

CDで三遊亭圓生の「三十石」を聴く。 伏見から大阪に向かう三十石船を舞台にした噺であるが、圓生の語る上方弁は本当に見事なもので、聴いていて居心地の悪さなど少しも感じない。 CDを繰り返し何度聴いても、その度に惚れ惚れとしてしまうんだ。 登場する江戸っ子の啖呵の威勢の良さは言わずもがなである。 江戸者と上方者、双方の言葉の掛け合いも楽しくて、要するにこれは、芸の力って奴なんだろうね。

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January 11, 2005

「痴人の愛」

「痴人の愛」(谷崎潤一郎著 新潮文庫)を読んだ。
平凡な男が、いつしか悪女に翻弄されてしまうと言う悲喜劇。 しかし、その悪女を育て上げたのは誰あらぬ自分自身なのだ。 女の事を誰が責められよう。 女を好き放題に着飾らせたのも、英語やダンスを習わせて能う限り西洋風に仕立ててやったのも、みな主人公の男なのである。
そうやって女を育成し、自分の思い通りに振る舞っていた積もりが、いつしか、逆に支配されている事態に気付く羽目になる。 だからと言って主人公は、女を手放し、あるいは追い出してしまったりはしないのである。 この、元来平凡な男は、いっそ人生を何者かに委ねてしまって、そのまま滅びの路を歩んで行きたかったのではあるまいか。
いやいや、滅びの美学などと振り被るには、主人公自身があまりに俗めいている。 そしてその分、著者の、伝統的な価値観へと送る惜別の情も、なんだかこう、妙にアッケラカンとした格好で見えて来る。 主人公の、滅多に得られぬものへの憧れから始まったこの手記は、遣る瀬無いような諦観を以って終わるのである。

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January 10, 2005

エックレスのソナタ

昨日はチェロのレッスンだった。 実に久々の事で、調べてみると昨年の10月30日以来と言う事になる。 我ながら、呆れてしまうなぁ。
エックレスのソナタの第1、第2楽章が譜読み段階で止まったままになっているのを見て貰う。 運指に若干の変更が入った。 レッスンに行けない間は独りで細々と復習っていた訳だけれど、どうやら大きな勘違いなどはしていないようで、少しホッとする。 

先生が昨年行ったリサイタルのCDが出来ていたので、早速分けて貰った。 自分にとっては全く幸いな事に、この時の演目にエックレスのソナタが含まれているのである。 これで、模範演奏のCDが手に入った。 ありがたい!
そもそも、エックレスのソナタなんて弦楽器の学習者(それも初歩の)だけに知られているような曲だから、CD音源が市販されていない(多分)。 これは自分のような初学者にとっては結構なハンディだと思う。 
これから、この模範演奏CDを聴き付けて、表現の細かい綾まで再現出来るようにしたいものである。
一体、一つのCDだけを聴き続けると、その表現方や奏者の個性に馴染んでしまう嫌いがあるけれども、このCDに関して言えば、弾いているのが自分の先生なのだからして、どんどん影響を受けるべし、なのだ。

今日は久々にまとまった時間チェロに触った。 弾き終わって、左手の指先が痛むのが情けない限りである。 3月に予定している本番まで、務めて復習う時間を作って行かなければならない。

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January 09, 2005

国芳・暁斎 ~なんでもこいッ展だィ~

東京ステーションギャラリーで開催中の浮世絵展を観た。 題して「国芳・暁斎 ~なんでもこいッ展だィ~」。 幕末の歌川国芳(1797-1861)と幕末~明治の河鍋暁斎(1831-1889)の作品を集めた浮世絵展である。 この二人の絵師の共通点は、とにかく画風の型破りな点に尽きると思う。 どちらも、観る者をしてアッ!驚かせるような痛快極まりない浮世絵の数々をものしている。 絵師として、動乱の時代に真っ向から向き合った軌跡とでも言うべきであろうか。 まさに、「なんでもこいッ展だィ」である。

伝統的な意匠の中に、時として非常に力強い線や大胆な構図を見つけて、その度にワクワクしてしまった。 画題も多岐に渡っていて、美人画や武者絵などの他、政治や風俗への風刺も忘れない。 個人的には、風刺画と言うのがイマイチ好きになれず、むしろ描く当人の趣味に走った絵などを面白く感じてしまう。(愛猫家である暁斎の描く猫の絵はなんとも粋だ) その他、暁斎の方は文明開化期の洋装の役者絵も描いていて、その柔軟さ驚かされる。

こじんまりとした東京ステーションギャラリーの中、惚れ惚れするような浮世絵の数々を眺めて歩くのが、とにかく楽しくて仕方なかった。 浮世絵って、こんなに面白いものだったのか! という驚きが(恥ずかしながら)本日の率直な感想である。 この日、自分の中で、以前はさほど興味の無かった日本画への感心が急速に高まっているのに気が付いた。

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January 08, 2005

「赤ひげ診療譚」

「赤ひげ診療譚」(山本周五郎著 新潮文庫)を読んだ。
世を拗ねた若い医師が小石川養生所の名物医師「赤ひげ」と行動を共にする内、真の医療に目覚めて行く過程を軸として、医師達と社会の底辺に住む庶民との交流を描いてゆく。
なんだか、テレビの勧善懲悪タイプの時代劇に良く見るような設定ではあるけれど、中には救いの無い悲惨なエピソードもあったりして、ゴールデンタイムのお茶の間向きばかりとも言えない内容なのである。 扱うテーマが厳しい程、そこに流れるヒューマニズムも力強いものになる・・・ならざるを得ないのだと思う。
赤ひげ達小石川養生所の医師らの仕事は、手術などの治療もさる事ながら、民衆を相手の予防医学には特に重点が置かれている。 赤ひげの時代、衛生に関する知識が乏しかったし、まして保険所などの公的機関が無かったからである。 そもそも民衆の貧困が医療にとっての最大の敵であると嘆く赤ひげの怒りは、やがて、必然的に徳川幕府、武家社会そのものへと向かってゆく。 どうにもならない歯痒さに独り悩み抜く赤ひげ。
この他、精神病やPTSDなど、今日であっても対処の困難な治療も、また赤ひげの仕事である。 例え、完治に至らないと判っていても、常に真っ向から治療に務める医師らの姿は、読者の静かな感動を呼ぶ。

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January 07, 2005

狛犬が面白そうだ

初詣は正月の三日に済ませた。 浅草、川崎、原宿辺りのメジャー神社の混雑振りはテレビで観るだけで沢山である。 だから今年は近所の大戸神社を選んだ。 近くと言う事で、これまでにこの門前を何度歩いたか知れないけれど、実はここでお参りするのはこれが初めてなのである。 正月の三日と言うのに他に参拝者もあまり無く、もの静かなのが気持ち良い。 で、この日初めて気が付いたんだけれど、ここの狛犬って大砲の弾を抱えたデザインなんだ! それも昔風のまん丸な奴じゃなくて近代的な砲弾だから、妙に生々しく感じられて、一瞬ぎょっとしてしまう。

気になる狛犬1

街道と狛犬見て歩き

川崎の歴史散歩

大戸神社に限らず、あちこちの神社に歴史的、美術史的に貴重な狛犬が残っている。 そんな狛犬を調べてみたら、さぞ面白いだろうと思う。 それぞれが地域の歴史に結び付いていて、薀蓄の傾け甲斐もありそうだ。 なにしろ昔から一つっところに鎮座まします訳で、しかも石造りだから堅牢無比。 苔生していたら、それはそれで趣になる。 落書きやら、傷付けられていたりしたら悲しいけれどね。
狛犬は、元々は高麗から渡って来たんだろうけれど、よく見るといろんな形態をしていて、日本に根付いてから長い年月の間に様々に分派して行ったって感じだ。
それぞれの意匠は、注文主の意向なのか、それとも造った石工のスタイルなのか。 ともあれユニークな狛犬を見つけると、ちょっと嬉しくなる。 神社側でいわゆるフツーの狛犬を頼んだつもりが、石工が妙に凝ったデザインに彫っちゃった、とか言ったトラブルだってあったかもしれないな。

平成十七年の正月。 大戸神社の静かな境内で砲弾と戯れる阿吽の狛犬は、日露戦争の勝利に沸く当時の空気を今に伝えている。

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January 06, 2005

新札を見る

財布の中の紙っぺら達が、何時の間にか新札へと取って替わっている。
この、替わる速さというのも凄いと思う。 やっぱりお金って動いているんだ・・・我ながら、なんて脳天気な感想だろうと思うけれどね。 今日は財布から3種類の新札を取り出してしげしげと眺めてみた。 実は、新札に関してこれまで一顧だにしなかった臍曲がり野郎なのである。

新千円札:野口英世の肖像はちょっと残念な出来ではないかと思う。 良く言えば若々しいんだろうけれど、品格が足りないと言うか、なんだか劇画の登場人物のようにも見える。 千円札って事で、わざと他の紙幣よりカルイ仕上がりにしてたりして、なんて妄想を膨らませてしまう。 それはともかく、夏目漱石がそのうちに姿を消すと思うと、なんだか残念でならない。

新五千円札:この樋口一葉は何歳ぐらいの時の肖像だろう。 いずれにしても、24歳の若さで夭逝しているから、紙幣を飾る肖像として異例の若さなのではないか。 これを機会に樋口一葉の作品も世間の関心を・・・呼んだりはしないだろうな。 内容にしても、文体にしても、今の世の中では受け入れられ難いと思うのだ。 次に新札を出す時には、紫式部か与謝野晶子辺りを起用してはどうか。

新一万円札:相も変わらずの福沢諭吉である。 続投の理由は知らない。 肖像画は微妙に変化しているようではある。 きっと同じ画家が書いたんだろうけれどね。 思えば旧一万円札の聖徳太子は歴代紙幣の中でも特に優れたデザインだったと思うなぁ・・・ってのはノスタルジーですね。 うん。

新札は偽造防止の為にハイテクを駆使しているらしいけれど、早速偽札が出回っている。 それも、安易にコピーして作っちゃったらしい。 こうなると、今回の新札も案外と短命に終わるのかもしれないね。

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歯の治療終了

歯医者通いも今日、と言うか昨日で終わった。 これでもう、暫くはドリル攻撃から開放される訳だ。 とは言え油断は禁物っと・・・

口開いてドリル迎へるその間月の上ではウサギが跳ねる

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January 04, 2005

G線が切れた

昨日、チェロケースを開けるとG線のペグが弛んでいた。 G線ぶ~らぶら~。 乾燥するこの時期にはよくある事である。 2番目に太いG線なので、さしたる注意も払わずにぐんぐん巻き上げていったらブチっと切れた。

一番細いA線ならば、チェロを始めて間もない頃に何本も切った事がある。 チューニングする際に、強力なテンションを上手にコントロールする事が出来ず、焦って一気に巻こうとするのが原因なのであるが、こう言うのはペグの廻し方を覚えるまでは仕方ないかと思う。 最初の内は取り扱いが厄介極まりないけれど、一旦要領を覚えてしまえば、後は大概上手に付き合って行けるものだ。

A線を一日に2本切ってしまった事がある。 それも安価とは言い難いヤーガーで。 A線2本分の値段を考えて途方に暮れた後、近所の楽器屋に走って一番安かったプリムを買って来って来た。

それにしても、G線がこうもあっさり切れるとは思わなかったな~。 ここ暫く弦を切った事が無かったので、すっかり油断していたんだ。 指板の、C線とD線の間にぽっかり空き地が出来たようで情けない事この上ない。 生憎スペアの弦を切らしている。 早速買って来ないと。

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January 03, 2005

「砂の器」

「砂の器」松本清張著(新潮文庫)を読んだ。
この小説は1974年に映画化されていて、随分と以前の事になるけれど、自分も観た事がある。 また、昨年テレビドラマ化もされて、テーマ曲として使われた千住明作曲のピアノ協奏曲「宿命」共々話題を(自分の周囲のピアニスト諸兄姉の間では)呼んだ。 但し、こちらは自分は観ていない。
自分は昨年12月11日のピアノオフでこの「宿命」のフルート+ピアノ編曲版を演奏していて、その印象が未だ鮮烈に残っている。 この小説を読んでいる間中もずっと、頭の中でピアノ協奏曲「宿命」の断片が鳴り続けていた。 脳内BGMである。
長年の経験と勘、そして不屈の粘りを武器にして、絶望の中から一点の光明を見出して捜査を続ける今西刑事の姿が、その堅実な生活ぶり(昭和30年代の庶民の生活と言えるのだろう)の描写も含めてとても良かった。 現在ならば、こう言った人物は精神論を振りかざすアナクロなタイプとして敬遠されがちなのではないか。 とまれ作者は、この昔気質の刑事を主人公に据えたのである。 テレビ版「砂の器」ではSMAP中居くんが話題を呼んだらしいけれど、もちろん彼は刑事役ではない。 原作の通り今西アナクロ刑事に焦点を当てたような演出は、もはや成り立たない時代になっているのかもしれない。
捜査の手掛かりは色々と、読んでいてちょっと不自然に感じるくらい頻々と今西刑事の周辺に漂っている。 但しそれらは、本人が粘り強い努力を重ねた末でなければ決して手に入らない筋立てになっている。 ここら辺り、幸運の女神は努力を惜しまぬ者だけに微笑むとでも言いたげではないか。 今西刑事と事件との間には運命的なものを感ぜずにはいられない。 そう思うとテーマ曲の題名「宿命」と符合して来るようで気になるよね。 やはりテレビも観ておけば良かったか・・・
もう一方で、これは、新時代の旗手として脚光を浴び続ける一方で、その実、虚飾にまみれている文化人達の物語である。 作者の視線は、そういった者達に批判的であり、また、その陰で犠牲となる人々への視線は優しい。
今西刑事の、文字通りの東奔西走の後、遂に犯人に辿り着く辺りは読んでいて興奮した。 但し、その後、逮捕状請求に至るまでの捜査の部分はいささか興を削ぐ。 (巻末の解説でも指摘されているけれど) 捜査もこの段階まで来ると大掛かりな捜査陣と科学者が投入されて、今西刑事も経験と勘のベテラン刑事から、大掛かりな捜査陣の中心人物へと役割が換わってしまうからである。
感銘の大きい一冊であった。

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January 02, 2005

マックスコーヒー

昨日、兄宅から拙宅へ帰ろうと駅のホームに立ったときの事。 電車が来るまで未だあと5分はあるしあんまり寒いしで、缶コーヒーでも飲んで暖まるかと思い立ち、自動販売機に近寄ったらマックスコーヒーを売っているのを見つけた。

そうか、この駅で売ってたんだ!

ちょっとした感慨を味わってしまった。 ジョージア・マックスコーヒーは、そのリミッターの外れた過激な甘味と入手の困難さ(地域により)から、知る人ぞ知る、と言う以上に有名な地域限定飲料なのである。
これまで自分は噂のみ聴いていて、実際に飲んだ事は未だ無かったので、これ幸いと自販機に120円を投入。 初めてのマックス体験と相成った。
なるほど、甘いよ~、これ。 もの凄く甘いです。 正に、マキシマムな甘さ。 但し、前もって予備知識があった分、味覚中枢にガツンと来るほどのショックを味わえなかったのがちょっぴり残念だったかも。
練乳にコーヒーを溶いたような味、と言ったら表現が単純過ぎるか。 ともあれ、強烈な甘さが通り抜けた後の、口中に残るほんのりとした風味を、自分的にはなかなか美味いと感じた。
冬の夜、駅の吹きさらしのホームに立って、寒さに凍えた体を温めるには持って来いの飲み物と思った次第。

利根コカ・コーラボトリング(株)マックスコーヒー
茨城王「マックスコーヒー物語」

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January 01, 2005

元日

例年の通り兄の家で新年を迎えて先程帰宅した。 我ながら慌ただしい話ではあるけれど、年末年始の休みがあまり何日も取れないので、そうそうのんびりしてもいられないのである。
昨日、兄宅の最寄り駅に着いたら雪、と言うよりも霰が盛んに降り出していた。 兄一家は、この数ヶ月前にこの駅近くに引っ越したばかりで、自分は未だ駅から兄宅迄の道筋を知らないのである。 駅から携帯で姪っ子を呼び出して、霰に打たれながら兄宅まで案内をして貰った。 道々、マフラーと手袋とコートが必要なんだと説かれるのを、テキトーに受け流しながら歩く。

兄宅の自分はと言えば、子供らにお年玉を渡す以外は、これと言ってする事がないのである。 甥っ子姪っ子達は、折角雪が積もっていると言うのに、不思議な程外で遊びたがらない。 いわゆる正月らしい遊びもしないので、叔父さんとしては、何だか詰まらないな。 手持ち無沙汰で、結局は喰っちゃ寝の懶惰な二日間を過ごしてしまった。

兄宅からの帰りも、姪っ子が駅まで送ってくれた。 そうそう、姪っ子の卓抜な折衝能力に負けて、結局のところマフラー、手袋、コートの購入資金を出してあげたのであった。 なんとも甘い叔父さんです。 ハイ。
帰って来ると、拙宅の周辺でも大晦日の午後は雪が降ったと見えて、積雪がまだ少し残っていた。

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